雪の記憶

2001.11.2 ・◆・合歓 




 暖炉の火がはじけた。ぐんぐん気温が落ちてきて、外には白いものが舞い始めた。
 ああ、こんな日だったな・・。
 俺が初めて天使と会ったのは―――



 もう、何度目かもわからない、そんな別れのシーンの後、俺はぶらぶらと繁華街をうろついていた。
 まだ帰る気にならない。
 余韻が熱く身体の芯を揺さぶっていて、心はきれいに別れてくれた、そのひとに感謝していた。大人の恋。大人の情事。大人のやりとり・・・。
 そんなものを綺麗に演出できる女だからこそ、惚れたのかもしれない。
 だが、決して実ることのない恋。俺には俺の事情があって、彼女には彼女の事情があった。
 俺の事情は言わずとしれたことだ。聖地へ一般人を連れ込むようなことがあってはならないというのは、俺自身が一番よく知っている。培ってきた日々、求めても簡単には得られない、ジュリアス様の信用・・。そんなものを、ひとときの恋のために捨てられはしなかった。
 彼女の方の事情は詮索しなかった。彼女も語らなかった。だが、言葉の端々から想像するに、親の決めた相手がいるらしく、いつかはその相手の元へ戻らねばならない・・と、そういう事情だったようだ。
 そろそろ引き際かな―――、そう考えていた矢先、彼女の方から別れを言いだしてくれ、そして、俺たちは最後に一度だけ抱き合って、右と左に別れてきたのだった。
「じゃあね・・・か・・」
 彼女の別れ際の言葉を呟きながら、俺は、クリスマスという祭りを控えて人出の多い街をぶらぶらと歩いた。先刻に増して、キンと冷たくなったような空気の中で、身体の火照りを冷ましてから、次元回廊をくぐりたかったのだ。
 ざっと踏み出した足先に、がつんと何かぶつかった。固いような柔らかいような、不思議な感触だった。
 下を見るより早く、舌っ足らずな罵声が飛んできた。
「痛いじゃないかぁ!」
 見ると、紺のオーバーオールと赤いチェックのフランネルのシャツを着たちびが、往来にひっくり返ってこっちをにらんでいた。
 ぼうっとしていてぶつかったらしい。もっとも、こんなちびじゃ、俺の視界に入ってこないのも確かだが・・。
「おっ、坊主、すまん!」
 どう見たって大きい方に分はない。やっこさんは飛び出してきたのかもしれないが、よけるのが大人の役目というものだ。
 俺は、その子どもを助け起こし、屈んでオーバーオールの汚れをはたいてやった。
「前見て歩けよな」
 見た目の割に生意気なことを言うガキだった。
「すまんな、坊主」
 もう一度謝ってやると、ちょっと得意そうに上を向く。
 飴の食べかすらしいべとべとで汚れているが、ふんわりした金髪に薄い緑の瞳が綺麗な子どもだった。
「・・でも、キャンディーが落っこちちゃったじゃないかぁ」
 子どもがひっくり返っていた後に、ピンクと水色の渦巻き様の、棒つきキャンディーが落ちていた。顔中の汚れは、これらしい・・。
「ベンショウしろよぉ」
 小難しい言葉を舌っ足らずに言うのがおかしくて、つい吹き出すと、子どもは気分を害したようにそっぽを向く。
「悪かったな・・。どこで買ったんだ? 『ベンショウ』してやるよ」
 すると子どもは一転して明るい笑顔で、通りの向こうを指さした。でっかいサンタとかいうじじいの像が立っている、菓子屋が一軒あった。
「よし、待ってろよ」
 子どもを歩道の隅に待たせて、俺は通りの向こうへ駆け出そうとした、そのとき、
「おじちゃん! ボクがいかなきゃ、どれだかわかんないじゃないかぁ」
その子が、俺のジャケットの裾を引っ張った。
「あのな、坊主・・、その『おじちゃん』というのは、やめてもらえないか?」
 そうだぜ、坊主。いくらなんでも、『おじちゃん』はひどすぎる。まだ二十一の、このオスカー様を捕まえて、こともあろうに『おじちゃん』とは・・・。
 俺は精神的に二、三歩よろめいた。
「だって、『おじちゃん』は『おじちゃん』だよぉ」
 少し恐い顔を作って、子どもを睨め付けると、子どもは半べそをかきながら、
「だって・・だって・・」
と繰り返す。
 ・・・まあ・・、無理もないか・・・・。
 たった三つばかりの子どもに、恐い顔を向ける方が間違ってる。
 俺は泣き出しそうな坊主の頭をくしゃくしゃと撫でると、その小さな手をとった。
「・・坊主、『お兄ちゃん』が悪かった・・。・・怖がらせた詫びに、何でも買ってやるぜ?」
 それでも『おじちゃん』でないことに拘るのが、我ながら情けなかった。
 子どもの機嫌は、まるでジェットコースターのようだ。急降下したと思ったらまた頂上付近にまで押し上げられている。
「ほんと!?」
 顔中が笑みでいっぱいになった子どもの手を引いて、通りの向こうにある菓子屋へ行く。さっさと店に入る俺とは違い、子どもは店先のサンタに見とれていて、なかなか入ってこなかった。
「おい、坊主、どれにするんだ?」
 声をかけるとようやく、夢から覚めたような顔をして店に入ってきた。
「えーと・・、えーとね・・・」
 小さな子どもには宝の山だったろう・・。色とりどりの量り売りのキャンディーのケース。さっきこいつが持っていたような棒付きキャンディーも、大きいのやら小さいのやら、色だって赤いのやら青いのやら・・。それはもううんざりするほど種類がある。
 さんざん迷っている子どもを、俺は辛抱強く待っていた。迷っている仕草が愛らしい。子どもの目がきらきらしているさまを見ているのは、思いがけない楽しさだった。
 さんざん待たされたあげく、子どもは棒付きキャンディーを二本持ってきた。
「あのね、一本はおにいちゃんの分だよ」
 見ると、赤と緑の大きな渦巻きキャンディーで、白のレースペーパーで包まれ、金色のリボンで結んである、子どもの顔半分ほどもありそうな、大きいしろものだ。
 こんなもの、俺は食わない・・・と言いかけて、やめた。こいつなりに俺に気兼ねしているのがわかったから。
「よし、それでいいんだな?」
 まだ目線が店中を彷徨っていたが、子どもは潔く頷いた。
「いいんだな?」
 口ではそう言いながら、俺はかぶっていた皮のハンチングを脱ぐと、その中にキャンディを手当たり次第に詰め始めた。
「おい、これでいくらだ?」
 表のサンタに負けないほど太った店主に勘定を頼んで、俺はハンチングを子どもに渡した。
「オマケだ、坊主」
 無性にその子の喜ぶ顔を見たかった。素直に喜ぶ様子が俺の火照りを鎮めて、やわらかな暖かさをくれた。その無垢な笑顔が、俺に天使を想像させた。
「ありがと! 『お兄ちゃん』、サンタさんみたいだね。真っ赤っかな髪の毛が、サンタさんの帽子みたいだ」
 はしゃぐ子どもを促して店を出ると、ひらひらと白いものが舞っていた。
「冷えると思ったら雪か」
 俺たちの後から店を出てきた、カップルの片割れが呟く。
 そのとき、通りの向こうで金髪の女が半狂乱で誰かを呼ばっているのが見えた。
「アンジー!? どこ!?」
 その声に子どもが駆け出す。しっかりとハンチングを持って。
「ママー!」
 もう、こっちを振り返らなかった。
 粉雪のベールの向こうで、同じふわふわした金の髪が、互いを認めて近づくのを見届けた後、俺もきびすを返してその場から離れた。
 さあ、聖地へ帰ろう。程良く心が温まり、身体も冷えたことだしな・・・。



 暖炉の火がまたはじけた。
 寝返りを打って、おまえが目覚める。
「オスカー様・・?」
 どうしたの?・・と問いかけるその唇を塞いで、俺は甘い舌を貪った。
 ふっと笑うと、彼女は唇を離して怪訝な顔で見つめた。
「何がおかしいんですか、オスカー様?」
「・・・棒付きキャンディーよりも甘いと思ってな」
「ん・・もう! 忘れてくださいってば!」
 彼女は頬を染めて、軽く俺の頭を叩いた。
 女王試験が始まって、俺の執務室へ挨拶に来たこの少女は、窓辺の小さな水差しに放り込まれたまんまの棒付きキャンディーをしげしげと眺め、それから鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、俺を見つめたんだ。
 そして、何も言わずに部屋を出ていってしまった。挨拶に来たはずなのに、その挨拶すらも忘れて。
 小一時間たって戻ってきた彼女の手には、黒い皮の帽子が握られていて、今度は俺の目がまん丸になった。
「ふっ・・、あの時の顔は、お互い忘れた方がよさそうだな・・・」
 俺は、もう一度彼女の唇を奪ってから、抱き寄せたまま呟いた。
「オスカー様・・」
 彼女の吐息がさらに甘くなった。
「あの坊主が・・こんなレディーになって、俺の目の前に現れるなんて・・な・・」
 冷たくなった、そのむき出しの肩を暖めるように抱き、手をなめらかな肌に沿わせると、彼女は俺の手の中にすっぽりと収まって、小さなあくびをした。
「・・そっちは忘れてくれないんですかぁ・・?」
「忘れたくないね・・」
 目を閉じたその顔のあどけなさに、笑みが頬に上るのを押さえきれない。
 聖夜もほど近い、俺の誕生日に、天使は俺の腕の中へ降りてきてくれた。
 窓を見やると、粉雪はさらに激しくなって、もう闇の向こうを透かすこともできないほど、厚ぼったいベールになった。
 でも、ここは暖かいな・・。ああ、暖炉の火のせいだけじゃない・・。おまえと―――アンジェリークと初めて会ったあの日の記憶が、おれを暖めていてくれるんだぜ。

      
・◆ FIN ◆・



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