雨の記憶

2001.11.2 ・◆・合歓




 聖地の門は、霧と見まごう細かな雨に包まれていた。
 立ち去る三人の人影を、オスカーは濡れたままで見送った。
 こんな形で、独り取り残されようとは思わなかった・・・。
 小糠雨・・というのだろうか、細かな水滴がびっしりと彼の赤毛を覆って、やがて冷たい滴が頬を伝う。

 ―――これは、涙なんかじゃない。

 門から少し離れたところで、大ぶりの傘をさし、こちらを見つめている少女がいることも今は考えられない。
 今にも駆け寄って傘をさしかけたい衝動を、彼女が必死でこらえていることも。
 その彼女の頬を伝うのが、この雨の滴とは違った熱さを持つものだということも。
 それが、去りゆく三人に向けられたのでなく、この自分に向けられたものだということも。

 ―――そうさ、これは涙なんかじゃない。

 何も、今は考えられなかった。オスカーは雨の中に立ちつくし、ただ門の向こうを見据えていた。


・◆・


「いいかげん、シャンとしたらどうなのさっ!」
 細くて綺麗な指だな、とオスカーは思った。
 これが女の子の指だったらもっといいんだが・・。
 オスカーの眼前のチェス盤をバンと叩いた手は、そのまま彼の襟首に伸びて、女性の華奢な手ではないことを思い知らせてくれる。
 ・・なんだ、小指のマニキュアが剥がれてるじゃないか・・・。
 眼前に迫った顔に怖じける様子もなく、彼は自分をつかんでいる手を見ている。
「・・何、見てんの?・・・」
 さすがに、その沈黙を気味悪く思ったらしい。少しトーンを落としてオリヴィエが訊く。
「いや・・。マニキュアが剥がれてるな・・と」
 ぐっと詰まったオリヴィエだったが、次の瞬間平手が飛んできた。
 よけたつもりが、まともに頬を叩かれた。
「・・・ほっといてちょーだいっっ! 私のマニキュアのことなんてどうでもいいでしょう? 今は、アンタのその腑抜けた態度について訊いてンのよっ!」
 それでも、オリヴィエにとってはかなりショックだったらしい。叩いた手を引っ込めて、彼は後ろで組んでしまった。
 心の中で慌ただしく「塗り直しだわっ」と叫ぶ様子が目に見えるようで、オスカーは痛む頬を押さえながら笑いをかみ殺した。
「とにかくぅ・・、アンタがみんなの束ねを任されたんでしょう? それなりに責任ってヤツを果たしたらどうなの?」
「オリヴィエ・・・」
 乱れた髪を手櫛で梳きつつ、応えるオスカーに、彼はさらに言い募った。
「こんなことなら、ルヴァが引き受けた方が―――」
「オリヴィエ!」
 睨んだアイスブルーの瞳に、焦りと憤りと怒りが忙しく交錯したのを見て取って、オリヴィエはそれ以上言うのをやめた。
 オスカーだってわかっちゃいるのさ・・。自分がどんな状態か―――そして、それから抜け出て来られない自分をどんなに歯がゆく思っているか・・。
 まあ、それだからこそ、日の曜日にこうして私邸にまで押し掛けてきているのだけれども・・。

 視線を合わせているのが辛くなって、オリヴィエは目を上げた。
 やや曇ったガラスの外は今日も雨だった。
 蕭々と降る雨は、先日の小糠雨よりももっと重たく冷たそうで、オスカーの脳裏にある出来事を蘇らせた。


・◆・


 聖地に来て初めての肉親の死は、どの守護聖をも打ちのめす。程度の差はあるにせよ。
 オスカーとて、例外ではなかった。
 覚悟して来たはずだし、生死紙一重の生活を強いられる軍人としての矜持もあった。
 だが、父よりも、母よりも、妹が先に逝ったと知ったとき、その覚悟が砂の城のように脆く崩れたことを自覚した。
 泣きたかった。
 だが、皆の前では泣けなかった。
 聖地の時間ではまだ前任者が去って一月ばかり。炎の守護聖として、ようやく執務室の椅子も尻になじんだ頃だった。
 強さを司る炎の守護聖が、何故人前で泣ける?
 それは、まだ少年の域を出ていない彼の見栄でもあった。

 ドコデナラ、ナケル?

 まだそう詳しくない聖地を、彼はあてどなく彷徨った。
 庭園の片隅、図書館の裏庭、森の湖・・・。
 だが、どこにでも人がいる。そして、彼を見つけるとにこやかに挨拶をしてくれる。
「ごきげんよう、オスカー様!」
 堂々とした体躯の赤毛の若者は、とても目立つ存在だった。
 いつもなら、その暖かな挨拶が彼を力づけ、微笑ませる。あけすけな故郷の人々の、素朴な挨拶とは少し違うが、その言葉にこめられた親愛の情は同等のもので、少しばかりのホームシックも吹き飛ばしてくれた。
 だが、今日は、その挨拶すら鬱陶しかった。

 ドコデナラ、ナケル?

 風が立ってきた。
 いつも穏やかな日差しに守られている聖地だが、今日は珍しく天候が悪い。
 木々を揺らし、花々を散らし、強い風が吹きすぎていく。
 出口のない、己の心を映したかのような天候に、オスカーの心はますます暗くなる。

 ふと、思い出した。
 首座の守護聖が、初めて遠乗りに誘ってくれた場所を。
 あそこなら、誰も来ない。
 徒歩で辿るにはいささか長い道のりだったが、だからこそ、独りきりになれるだろう。
 ぽつぽつと降り出した雨の中、オスカーはそこを目指して早足に歩き出した―――

 薄暗い空の下、雨に煙った緑が広がる。
 ちらりとその光景に目をやり、それから冷たい草に腰を下ろして、オスカーは膝を抱えた。その膝の間に頭を押し込んで、ようやく溢れる涙を解放した。
 あいつはいくつになっていたんだろう・・。
 気は強かったが、仲はよかった。俺とも、弟とも・・。
 幸せに暮らしていたのか・・? 結婚はしたのか?
 聖地の一月は、あの惑星の何年になるんだ?
 いくつもの疑問符が頭をよぎり、それと意識しない間に、涙と共に流れていった。
 ディアーヌ・・、おまえが先に逝っちまうなんてな・・。
 冷たい雨が、彼を包む。
 濡れそぼった体より、冷たい心の方が痛かった。

 ひとしきり泣くと、オスカーは立ち上がった。
 ようやく、心の痛みより、冷えた体の痛みの方を強く意識するようになったのだ。
 強ばった全身の筋肉を少しずつ動かして、ゆっくりと立ち上がる。
 マントは雨露を吸って重かったが、それでも体を守る役目は果たしてくれたらしい。
 そのマントを引きずるようにして振り向くと、一本の大樹の陰に、豪奢な金の髪の持ち主が佇んでいた。二頭の馬の手綱を取って、少し伏し目がちに。
「ジュ・・ジュリアスさま!」
 いつからそこにおられたのだろうか・・。
 どうして?
 俺を捜しておられたのか?
 充血した瞳を驚きに見開いた彼に、光の守護聖は歯切れ悪く、炎の館の執事に訊いて来たと言った。
 そして、栗毛の馬を指し示した。
「・・帰ろう、オスカー。・・そのままでは風邪をひくぞ」
 執務室で見る首座の守護聖とはまた違う、世慣れない青年の顔がそこにあった。
 雨粒は、その青年の黄金の髪にも貼り付いて、雲間の光を受けて煌めいていた。


・◆・


「それにしても、よく降る雨だね・・」
 出窓に腰掛けて外を眺めていたオリヴィエが言った。
 彼らが行って三日の間、雨は降り止まない。
 決して豪雨にはならず、かといって霧雨程度のものでもなく・・。
 蕭々と同じ調子で雨が降る。
「・・そうだな・・」
 お互い別の、あらぬ方を眺めているのに、オスカーとオリヴィエは同じことを考えていた。
「・・陛下は・・まだ閉じこもっておられるのか・・?」
 オリヴィエが頷く気配がした。
 ・・・無理もない。
 二人ともがそう思っていた。
 女王の想いに気がつかなかったのは、彼だけだったのではないだろうか―――去っていった首座の守護聖。
 いや、もしかしたら、気がついていたのかもしれない。
 去り際のその人の瞳が曇っていたのを、オスカーは思い出す。あれは、小糠雨のせいばかりではないだろう。

 そうさ・・。あの雨の日に俺を追いかけてきたように、存外鋭く皆を観察していたのだ、あの方は―――。

 だが、人々に朴念仁と思わせたまま、彼は去った。
 そして、気丈に微笑んで彼らを謁見の間で見送った女王は、その日から私室に隠ったまま姿を見せず、ただ、雨だけが聖地に落ちている。
「・・女王の感情の起伏は、天候に現れるってことだよね・・・」
 オリヴィエの呟きが二人の間にぽろりと転がる。
「なんだか、女王試験の直前を思い出して・・、いやだねぇ・・」
 続き雨は、皆の気を滅入らせた。
 ことに守護聖は、先の女王の力が尽き始めた頃の、様々な異変を思い起こし慄然としていた。
 だからこそ、オスカーがしっかりしなくては・・。
 オリヴィエの独り言は言外にそう語っていた。


・◆・


 聖地が、女王によって守られた土地だということを、あれほど意識したことはなかった。
 長く、平安な時を過ごしていればいるほど忘れがちな、それは空気のような不文律だった。
 だが、強大な女王の力が弱まり、遍くその力を注ぐことに女王が緊張を強いられるようになった頃、聖地にはまず変わった風が吹き始めた。
 そして、弱い雨、強い雨・・。時には霰や雹も・・・・。
 緑の守護聖の館にある草木や果樹は、突然の霜にあい、また花々は雪にまみれた。
 誰もが、漠然とした不安の中にいた。
 首座の光の守護聖や、長きにわたっての記録を読んでいる地の守護聖には、その不安の正体が見えていたようだった。が、年若な守護聖たちは、不安にさらされ浮き足立っていた。
 オスカーにとっても、年少の守護聖ほどではなかったが、女王の力が弱くなるという事態は初めて経験するものだ。
 難しい顔を崩さないジュリアスに、己の不安を預けるなど、オスカーの矜持が許さない。これ以上、敬愛する彼の負担を増やしたくはない。かといって、己一人の胸に納めておくのは、さすがのオスカーにも荷が重かった。

 遅くまで執務室に詰めているジュリアスを気遣い、その夜、オスカーも執務室に身を置いていた。
 外は篠突く雨。このままでは、馬をおいて馬車で館に帰らねばならない。
 そろそろ馬車の手配をして、ジュリアスを執務机から引き剥がして―――そう考えたとき、隣り合った執務室から、竪琴の音色が流れてきた。
 リュミエールもまだ残っているのか・・!
 細い音色は、やはり不安という色に染められているようだった。
 自分の不安と彼の不安とつきあわせて、何か益があるのだろうか・・、そう思わないではなかったが、それでもオスカーは隣のドアをノックする事に決めた。
 不安の正体が見えているのなら、そんなことはしなかっただろう。正体さえ見定めれば、自ずと進む道は見えてくる・・、それが彼の信条だったから。
 軽いノックに返事はなかった。
 強い雨音に沈んでしまったのだろう。
 いつもの気安さでドアを開ける。
 だが、そこは、湖底のように暗く沈んだ空間だった。
 ハープの音は、その暗がりを縫うように流れてくる。雨音と狎れ、暗がりの魔を引きずり出し・・。常平生のリュミエールの音色ではないように思えた。
 自分の執務室で聴いたその音よりも、さらに深く沈んで聞こえる。
 そのとき、ぷつりとハープの音が止んだ。
 そして、それに続いて低く這うのは、闇の守護聖の声だった。
(クラヴィスさまが・・!)
 リュミエールが彼の執務室に出向いてはハープを弾いているのは知っている。
 だが、今夜は珍しくクラヴィスがリュミエールの執務室にいるようだ。
「・・やはり、まだ私はこだわっていたようだ・・」
 クラヴィスの声が吐息と共に吐き出された。
「お心のままにお弾きするなど、やはりやめておけばよろしゅうございました・・」
 リュミエールの声は、たいそう疲れ果てているようだった。
「・・おまえの優しさにつけこんで、己の心を見たいなどと言ったのは私のわがままだった・・。許せ・・」
 リュミエールは一体何をしたというのだろう?
 心のままに・・と言っていたが、それはどういうことなのだ?
 佇んだまま、オスカーが暗がりに目を凝らしていると、リュミエールの声が激しさを増した。
「クラヴィスさまをお責め申し上げているのではございません! ・・むしろ、軽々しくお引き受けした、私自身が責められるべきなのです。・・・確かに、故郷でこのような弾き方をも受け継いで参りましたが、自分の本心を知って、それで心が平らかになると、そう確信したときだけにすべきだったのです」
 それに対してクラヴィスは黙ったままだった。
「私の執務室をお選びになったのも、ジュリアスさまにこの音色をお聞かせにならないためでございましょう?」
 沈黙が重く、暗い水の守護聖の執務室に漂う。
「そんなにまでして、ご自分のお心のうちをお確かめになった、そのわけをお教えください」
 話の断片から察するに、リュミエールはクラヴィスの心をその竪琴の調べに写し取ったのだ。そう言えば、彼の出身星には、音楽を基にした様々な癒しの手法があるのだという。リュミエールの祖先には音楽を生業とする呪術師がいたとも聞いた。その祖先から、何か秘技に属するものを伝えられていたに違いない。
 その技術を使って、クラヴィスの望みのままに、リュミエールは琴を奏でた。そして、あの音楽を紡いだ。
 それを今、彼は悔いている。
「・・おまえが気に病むことはあるまい?」
 クラヴィスの声はいつも通りだ。囁くようで、それでいて腹の底に響く。
「私が、いまもってあれを好いているかどうかなど・・、おまえには関係のないことだと思うが?」
「ですが!」
「ただ・・、私は確認したかっただけなのだ」
 さらに微かに、その声は呟いた。
「一度分かたれたお互いの生を、また重ね合わせる気があるのかどうか・・。この、重苦しく締め付けられる胸の痛みは、まだ愛なのか・・、それとも・・」
 語尾が消える。
 ・・愛ではなかったのだ・・。その瞬間、オスカーはそう思った。それは直感だった。闇の守護聖は、今このとき、過去の想いに終止符を打ったのだ。
「分かれた道は、もう交わることがない・・と、それを確かめられただけでも・・、私には十分な意味がある・・」
 リュミエールの哀しげなため息が聞こえた。
「私は・・・」
「気に病むな、リュミエール。・・自分で望んだことだ」
 大きな影が揺らいだ。クラヴィスが立ち上がったらしい。
 オスカーはドアの陰に身を竦ませた。
「・・クラヴィスさま・・! どちらへ?」
 続いてリュミエールが動く気配がする。
「・・・あれへサクリアを贈ってくる」
「雨が激しゅうございます・・。もう遅いですし、明日になさってはいかがですか?」
 雨音はさっきよりさらに大きくなっていた。
「・・だからこそ・・だ。・・・・憎んでいる訳でも、厭わしく思っている訳でもない・・。ただ―――男と女の愛を見いだせない、それだけだ・・。・・・そして、私は守護聖だ。陛下に忠誠を捧げたはずの」
 激しい雨音は、強大なはずの女王の力が、衰え、疲弊しきっていることを表していた。クラヴィスは・・、安らぎを司る闇の守護聖は、女王につかの間の安らぎを与えようと、奥宮に赴くのだろう。
 フッと、吐息混じりの苦笑が聞こえる。
「もう・・、含むところは何もない。おまえの曲のおかげだ。・・だから気に病むな、と言ったのだ。・・・そんなことより、おまえ自身の問題を考えるのがよかろう」
 ビンっと弦が鳴った。がたりと椅子が倒れる音がした。
「ク・・クラヴィスさま・・?」
 リュミエールの蒼白な顔が見える気がした。そして、クラヴィスの表情を消した瞳が、じっとリュミエールを見つめる様も・・。
「あの娘とて、永久に聖地にいるわけではないのだ・・」
 あの娘・・・?
 微かな衣擦れの音が、思考にとらわれたオスカーを現実に立ち返らせた。
 クラヴィスが出かけるらしい。
 よりいっそう激しさを増した雨音に紛れ、オスカーはリュミエールの執務室を抜け出した。
 リュミエールは何を迷っている・・?
 間一髪で自分の執務室に戻ったオスカーは、しばらくの間ドアを背に立ちつくしていた。
 窓を叩く弾丸のような雨の音を聞きながら・・・。


・◆・


 結局・・、リュミエールが何を悩み、何を思い詰めていたのかは、オスカーには解らず終いだった。
 その雨の一夜の後、まもなく女王試験が行われる発表があり、そして、候補たちが飛空都市にやってきて、一見賑やかな毎日が過ぎた。
 そして、今の女王が即位し、新宇宙へ移動するという大事業が行われ―――かつて闇の守護聖と想いを交わしあった女王は去った。
 慌ただしい日々だった。

 ようやくほっとしたのもつかの間―――
 新女王を支え、新しい宇宙を支えてきた守護聖たちの生活に、ふと影が差したのは、256代の女王の即位から数えて聖地の時間で二年目に入った頃のことだった。
 まず、水の守護聖のサクリアが、水脈が枯れるように少しずつ衰えていった。
 それだけでも、彼と同期であったオスカーには堪える出来事だったのに、さらに追い打ちをかけて、ジュリアスのサクリアも失せた。
 同時に二人の守護聖が交代する・・、穏やかさを取り戻していた聖地の生活がまた慌ただしくなった。しかも、一人はその首座である。新しく光の守護聖となるのは、マルセルよりも幼い少年だという。誰が支え、誰が首座として守護聖を統括し、女王をお支え申し上げるのか―――闇の守護聖しかあるまい・・誰もがそう考えていた。
 だが。
 クラヴィスのサクリアも、そのとき既に失われていた。光のサクリアがジュリアスから去ったとき、闇のサクリアもまた消えた。
「光がなくては、影もできぬ」
 その事実が明らかになったとき、ただ一言、御前会議の席でクラヴィスはそう言った。
 ジュリアスは意外そうな顔をしたが、苦笑すると守護聖の束ねをオスカーに命じた。
「ルヴァには、新しく聖地に来る守護聖たちの教育係になってもらわねばな」
 クラヴィスが共に聖地を去るとわかったからなのか・・、リュミエールの表情も明るかったのが、オスカーには印象的だった。

 雨は―――いろいろなシーンを思い起こさせる。
 去っていた人々の、思いがけない一面を掘り起こして。


・◆・


 思いがけない・・と言えば、現女王と補佐官とも、雨の日の思い出があった。
 まだ二人が候補として、飛空都市の特別寮にいた頃のことである。
 育成の合間を縫って寮を訪れたオスカーは、彼女らに部屋へと引っ張り込まれた。
「なんだ、お嬢ちゃんたち?」
 約束をしていたのは女王になった少女とで、俄雨で出かけられない断りを入れにいった時だった。
 少女たちはくすくす笑って、オスカーをテーブルにつかせ、その目の前に焼き菓子だの、パンだのを盛り上げた籠を並べた。
「びっくりしちゃいました、オスカーさま! ロザリアってばすごくパンを焼くのが上手なの」
 金の髪の少女が言った。
「これは胡麻の・・、こっちは南瓜が入ってます。・・何でもばあやさんがなさるから、こんなことロザリアにできるなんて、思わなかった」
 藍の髪の少女は常にも増して権高く切り返したが、それは照れ隠しのようだった。
「・・何よ! わたくしがパンを焼いたって、何もおかしなことはないじゃない! それより、あんただって、こんなにおっちょこちょいのくせして、どうしてお菓子を焼くとなったら慎重になるわけ?」
 彼女が指し示した焼き菓子は、綺麗に形が整えられていて、とても素人の作とは見えなかった。
「この注意深さが育成にも出たらよかったのにねぇ」
 憎まれ口も二人の近しさゆえだろう。
「ね、召し上がってみてください、オスカーさま。あんまり甘くしてないから、お口に合うと思うんだけど」
「大丈夫さ、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんたちが作ってくれたものなら、口の方を合わせるから」
 オスカーはクッキーを一つつまむと、さくりと小気味よい音を立てた。
「ん! 意外にうまいじゃないか!」
「・・オスカーさま・・、先ほどから伺っていれば、なんのかんのと言いたい放題仰ってくださいますこと」
 藍の髪の少女が睨んだが、オスカーは残りのクッキーをほおばると、その少女が焼いたというパンを取り上げた。黒胡麻の散った細長いスティックは硬からず柔らかからず、香ばしさが口いっぱいに広がって美味だった。
「・・これもいけるぜ、ロザリア」
 どんな女性の怒りも溶かしてしまうような極上の笑みを向けられては、彼女とて例外ではない。
 それでも負けず嫌いの性格からか、こほんと一つ咳払いをして、藍の髪の少女はオスカーに言った。
「お気に召したのでしたら、ちょっとお手伝いいだだけませんか、オスカーさま?」
 金の髪の少女もオスカーの袖を引っ張る。
「お願いしますぅ。・・パウンドケーキに添えるクリーム泡立てたいんですけど、もう私たち、手が痛くなっちゃって」
 ほら、と両手を広げられても何がわかるという訳でもない。
 窓を見やれば、その向こうは降り止まぬ雨。
 ・・こんな日もあってもいいかもな・・。
 オスカーは肩をすくめると、少女たちの誘いに乗った。
「この俺にクリームを泡立てさせようってのか、お嬢ちゃんたち? いい根性してるぜ」
「だってねぇ、ロザリア?」
「ええ、ただではごちそう致しませんわよ」
 笑いさざめく少女に挟まれて、キッチンへと廊下を辿る。
「お嬢ちゃんたち、そんなに菓子やらパンやら焼くのが好きだったら、パン屋でもやったらどうなんだ?」
 近づくにつれて強くなるバニラの香りに、少し辟易しながらオスカーはそんなことを呟く。
 それをちゃんと聞いていて、金の髪の少女はくすくす笑った。
「オスカーさまもそう思いますか? 私たちね、もし試験に失敗したら、二人でパン屋さんでも開こうかなって、言ってたんですよ」
「本気になさらないでくださいましね! ・・アンジェリーク、あんたってば、冗談だって言ったじゃない! わたくしたちは女王試験を受けるためにここにいるのよ」
 藍の髪の少女は綺麗にカールした髪を振り立てて否定した。
「いいじゃない。だめなときのこと、考えたって・・」
 不安そうに金色の髪の少女が囁く。
「そんな、逃げることばかり考えてるから、育成もはかどらないのよ」
 藍の髪の少女は容赦がない。が、その言葉の底には友人を気遣う心根が感じられて、オスカーの微笑を誘った。
 いいコンビだ。
「仲がいいのも結構だがな、俺がいるのを忘れないでくれよ、お嬢ちゃんたち。女性に無視されるのは馴れてないんでね」
 どちらもかわいい。そう・・、妹のようなものだ。
 今日誘いに来た彼女は、ジュリアスを恋うている。そのために、よき女王になろうと努力を重ねている。もう一人は―――
 オスカーの視線を感じたのか、少女が振り向いた。その瞳には楽しげな光が踊っていた。
 そう・・、もう一人は・・、やはり妹のようなものだ。まだまだ、俺の守備範囲じゃない。少しだけ辛い恋でもしたら、もっと大人になるのかもな・・、お嬢ちゃん・・。
 その少女から、生クリームの入ったボウルと泡立て器を手渡され、勝手違いを嘆きながら、オスカーはそんなことを考えた。
 雨はまだ、止む気配もなかった。


・◆・


「そう言えば・・」
 オスカーがふと漏らしたため息を、オリヴィエは待っていたかのようだった。
「リュミちゃんから預かってたものがあるんだった・・」
 椅子を鳴らして立ち上がったオスカーに、オリヴィエは封蝋が施された封書を渡した。よく見知ったリュミエールの細い筆跡が見てとれた。
「オスカーに・・ってさ。落ち込んでるようだったらすぐにって・・」
 オリヴィエが苦笑したのが、少し悔しかったが、それでもすぐに封を切った。
 流麗な手書きの文字に目を走らせる。
 手紙を読むのに少しだけ細めた目が、読み進むにつれて大きく見開かれる。こちらを窺うようなオリヴィエの視線は無視して、五枚ほどの手紙を読み終わった。
 ぱさりと手紙がチェス盤に落ちる。
「・・行って来る・・」
 オスカーがゆらりと立ち上がった。
「行って来る・・って、どこへさ?」
 オリヴィエもつられて立ち上がった。
「宮殿だ」
「・・って、今から!? もう遅いよ。それにまだ降ってるし。明日にしたら?」
 いつか・・、同じ科白を聞いたっけな。あれは、この手紙を認めたリュミエールだった・・。
「いや・・。今、行かないと俺は一生後悔しそうだぜ」
「何しに行くってのさ!? 中になんて入れちゃもらえないじゃない」
 訳がわからず、オリヴィエが拗ねた声を上げた。
「・・その手紙・・、読んでみろよ―――」
 乗馬用のマントを羽織るとオスカーは駆けだした。
「んもう! 何だってのよーーっ!」
 何の説明もないことを憤ってはみたものの、オリヴィエはチェス盤の上に置き去られたままの手紙を拾い、言われたとおりに読み出した。


『親愛なるオスカー

 私がいなくなることで、あなたが衝撃を受けているのではないか―――
 聖地を去るにあたり、そのことばかりが気になって致し方ありません。
 よけいなことを・・と思うかもしれませんが、私は、あなたの女性に対する接し方そのものには不満がありましたけれど、あなた自身は、私の同期・・、大変近しい存在として、頼りにしてまいったのですよ。
 意外そうな顔で、これを読んでおられるのではありませんか?
 いつぞや―――私たちがまだ守護聖として聖地に上がったばかりの頃でしたか―――私が不安に駆られて夜中ハープをかき鳴らすのに、黙ってつきあってくださったことがありましたね。
 それから、私を怪異から救おうと奔走してくださったこと。
 他にも言い尽くせぬほどのお世話になってきました。
 あなたへは、皮肉でしか応じられぬような心の狭い私ですが、そう、本当はとても頼りにしていたのです。

 私自身のサクリアが、このように早く尽きるというのも、少しは意外でしたが、それ以上にジュリアスさまとクラヴィスさまのサクリアが、同時に尽きてしまわれたのは、大きな驚きでした。
 もちろん、これからもクラヴィスさまのお世話ができる・・ということは、喜びではありますけれど、残されるあなた方にとっては、大きな損失でしょう。
 諸事慌ただしいことと思いますが、どうぞ、女王陛下を支えて差し上げてください。
 ただでさえお忙しい陛下ですのに、心の支えとも思っておられたジュリアスさまが、永久に聖地を去って行かれるのですから・・。

 想い人が聖地を去る―――
 これは残される身にとってはたいそう辛いことです。
 私は身を持って、この辛さを味わいました。
 そう・・、ジュリアスさまはご存じないでしょう。今、ご自分が去っていく立場におられるのですから。
 クラヴィスさまも、先の陛下が去られる前に、ご自分のお気持ちを整理され、昇華されておられましたから、お辛さまではお感じになっていないでしょう。
 私は・・、先の陛下とともに去っていかれた、あの方をお見送りせねばなりませんでした。
 いえ、想いを通じ合ったということではありません。私の一方的な想いです。
 ですが、あの方たちが、降りしきる雨の中、去って行かれるのを、聖地の門脇に立つ大きな木の陰で、こっそりと見送らねばならなかった辛さは、その後もずっと私の心に爪痕を残しました。
 あの方は、私を同僚としか見ておられなかった・・・。
 最後の最後まで、私は自らの想いを隠して、あの方と挨拶を交わすことしかできませんでした。
 夢の中で、何度あの方に告白したことでしょう。
 何度あの方をかき抱いたことでしょう・・!
 ですが、私にできたのは、隠れてお見送りすることだけ。

 オスカー。
 もしも今突然に、あなたのサクリアが尽きたとしたら、私のように隠れてあなたを見送るひとが、宮殿においでです。
 私はあのひとのことも、あの方とは別の意味で、想っております。
 ですから、このような辛い思いはおさせしたくない。
 幸せに、どうか幸せに・・と、それだけを祈らずにはおられません。
 女性の気持ちには長けたあなたのことですから、これは老婆心というべきものでしょうが、去りゆく身には後のことがひどく気になるものです。
 どうぞ、あのひとのお気持ちを汲んであげてくださいませんか?
 あなたが、あのひとを妹のようにしか思えない・・というのでしたら、それをはっきりと告げてあげていただけませんか・・?
 私のように、行き場のない想いを抱えて、雨の中立ちつくすことだけはないように―――

 陛下は、きっとオリヴィエが支えてくれることでしょう。
 可笑しいですか?
 彼はおくびにも出していないでしょうが、オリヴィエのことですから、きっとジュリアスさまが去られたチャンスを生かすことでしょう。そんな抜け目のない優しさが、オリヴィエのよいところですからね。

 最後に、あなたと、みなさんの幸福を心からお祈りして、お別れの言葉と致します。
 どうぞ、お幸せに・・・。

                            リュミエール   』


「リュ・・リュミちゃんってば〜〜〜っっ!! 何でこの期に及んでばらしていかなくちゃいけないわけぇ?」


・◆・


 雨の中、今オスカーは馬を走らせている。
 勢いのない雨だけれども、容赦なく目に飛び込んできて、前を見ているのがつらい。
 脳裏に明滅する光景は、彼らが去った日の聖地の門。
 目の端で捉えていた、少女の姿。
 大ぶりの傘。
 そそけだち、泣き濡れた頬。
 あれはすべて、俺に向けられたものだったのか―――

 オスカーは馬を駆る。
 ただひたすらに、雨の中を。

 宮殿の車寄せに馬を乗り捨てて、衛兵の制止も振り切って、彼は彼女の部屋を目指した。
 補佐官になった、あの少女。
 三人で過ごした雨の日に、ボウルを手渡したあの少女。
 彼女の姿を求めて、彼は宮殿を駆け抜ける。

 ふと―――
 鼻先をバニラの香りがかすめた。
 甘いバニラの香りに導かれ、オスカーは目の前の扉を押し開けた。
 吃驚した顔の少女が、泡立て器を手にして立っている。
「オスカーさま?」
 その手から、泡立て器を取り上げて、オスカーは言った。
「・・・パン屋の主も悪くないかも・・な、お嬢ちゃん・・」


・◆・


 互いの腕の中で聴いた雨音のリフレイン。
 きっとそれが途絶える日も近いだろう。
 水の守護聖の、最後の祈りが実ったら・・・。

      
・◆ FIN ◆・



BACK ・◆・ HOME