1998.11.16 ・◆・たちばな葵
これはジュリアス様のわがままだ。
多分,一生に一度の。
そんなことは分かっている。
でもそうと分かっていて,やっぱり俺はジュリアス様のそのお言葉に逆らうことなど出来ない。いや,むしろ何だか安心したような気持ちで,ジュリアス様の望みを受け入れようと思う自分がいる。
孤高の人,光の守護聖。
そのささやかなわがままを,誰が否定できよう。
・◆・
十八で聖地にあがったとき,ジュリアス様は二十一でいらした。
俺は彼を初めて見たとき,こんな人間がこの世にいるのかと,正直言ってびっくりした。
人間,という認識がしにくかった。なぜならジュリアス様はまさに神にも等しい神々しさを湛えて堂々と佇立していらしたからだ。
文字通り,ジュリアス様のお立場は神に近しい。最も神に近しい存在が陛下だとすれば,ジュリアス様はその頃からもう,限りなく陛下と同じくらいの重厚さでもって神の荘厳さを身に付けておられた。
守護聖として認証を受ける儀式の時,ジュリアス様は微かに微笑まれて俺の手を握り,あの静かな声音でおっしゃった。
「これからよろしく頼む,新たなる炎の守護聖,オスカー」
綺麗な笑顔だと思った。でもその次の瞬間にその笑顔は厳しい表情の中にすっと隠れてしまっていた。
しばらく聖地で過ごしながら,俺はジュリアス様が滅多に微笑むことなどなさらない方なのだということに気が付いた。
その執務の量の膨大さを知って,それも無理のないことなのかと思わざるをえなかった。
守護聖の執務は大きく二つに分けられる。
ひとつは自分のサクリアが宇宙に及ぼしている影響を,王立研究院と連携をとりながらつぶさに調査観察,分析をすることだ。膨大な数の星々について,ひとつひとつその作業を行っていくのは決して楽なことではない。しかしそれは自分の力が宇宙にどれだけ貢献しているかを直接肌で感じることのできる作業であり,責任は重いが嬉しい仕事ではある。
もうひとつは,自らのサクリアを高め,より効果的な放出が出来るようにする自己鍛錬である。
俺の場合それは,例えば剣の稽古や乗馬などのスポーツと同じ次元で取り組むことが出来る中身なので,さして苦にはならない。
執務時間が終わればプライベートに時間を使うこともできた。そしてあまり苦労を感じずに,守護聖としての生活に俺は徐々に慣れていった。
しかし,ジュリアス様の生活におよそ純粋な意味でのプライベートがほとんどないことを知ったときは,愕然とした。
俺や他の守護聖たちは「自分の」サクリアのことにだけ目を注いでいればよい。しかしジュリアス様は,ご自分の光のサクリアについて俺達同様の執務をなされるのに加え,全守護聖のサクリアについて統括し同じように調査観察,そして分析をしていらっしゃったのだ。言ってみれば俺の執務の九倍もの内容が,ジュリアス様の両肩にのしかかっているということだ。執務時間の規定などジュリアス様には無意味だった。はたしていつ私邸に戻られているのだろうかと訝しんでしまうくらい,ジュリアス様はその「執務」に起きている時間のほとんどを割いておられる。
「サクリアの機能については二重三重に調査分析をしていくべきなのだ。例えば炎のサクリアについて言えばまず研究院,それからお前,そして私,最後に陛下自らがご確認,ご検討なさって実際に宇宙へ向けて機能していく。慎重すぎるに越したことはない。複数の眼でチェックをしていかなければ,どこにどのような落とし穴が待っているとも限らぬ。…まだるっこしいと嗤うか? ふふ,お前は若い。だがな,サクリアの行使にミスは許されないのだ」
ジュリアス様に遠乗りに誘われたときには驚いた。俺などが同行して,せっかくの貴重な休息の時間を台無しにしはしないかと危惧した。しかしジュリアス様はまるでサクリアに関する指示と同じ調子で遠乗りに同行するよう命じて下さったので,そこは割り切ってご一緒させてもらった。
その遠乗りの丘で,ジュリアス様は遠くをご覧になる眼で言われたものだ。
「僅かなミスが,多くの生命の行く末を左右する。だから,気を抜いてはならぬ。…サクリアとは…守護聖の使命とはそういうものだ―――」
本来なら光の守護聖とその性質を二分する闇の守護聖が,今ジュリアス様が背負っておられる重責の半分を担って当然であると知ったときには,俺はクラヴィス様に激しい憤りを感じた。
クラヴィス様はジュリアス様にとって何の力にもなっておられない。そればかりか闇の守護聖として当然なされるべきである己のサクリアについてのフォローも,ほとんどされてはおられない。今ならそういうクラヴィス様の生き方を肯定は出来ないまでも,ある程度認めることが出来るまでになった。しかしあの頃の俺は出会うごとにクラヴィス様を批判し攻撃し,敵意を剥き出しにしていたように思う。
だったら俺が,ジュリアス様のお力になる。
誰もジュリアス様を助けないのなら,俺が。
今思えば,気負った青二才の勇み足だったのかもしれない。
なぜならジュリアス様は今,俺のいれたエスプレッソを口にしながら優雅に笑んで言われるのだから。
「……私はあれの前の闇の守護聖をとても慕っていたからな。必要以上にあれに辛くあたっていたのかもしれぬ。あれも,あれなりにやってはいるのだ。…近頃思うのだがな,私は夜に何かを思い悩んで眠れなかったという試しがない。ベッドに入ると不思議なくらいすっと安らかに眠れるのだ。……もしや,あれが何やら小細工をしているのでないかと勘ぐってしまうくらいにな」
・◆・
頬を叩かれて,初めて正気に返った。
叩いてくれたのはジュリアス様だった。
守護聖になって,聖地の時間でちょうど二年過ぎたときだった。
俺は父親が死んだことを知ったのだ。戦死だという。
軍人だった父は王立派遣軍の一員だった。父が属する部隊が出動した戦闘は,辺境惑星で起きた激しい内乱を収めるための出兵だったときく。父はその戦闘のさなか,命を落とした。
人が相争うとき,そこには必ず炎のサクリアが関与している。
破壊と創造を司るこの力が,命のせめぎ合いとその後に訪れる進歩に欠かせないものだと分かってはいる。
しかし。
もし,その惑星の内乱が俺のサクリアに誘発されたものだったとしたら。俺のサクリアがその闘いに火をつけ燃え上がらせたのだとしたら。
父を殺したのは,俺だ。誰でもない,この。
俺は,動揺した。
そして,あろうことか誰にも無断で故郷である草原の惑星に降り立ったのだ。
俺が聖地で過ごした二年の間に,故郷では信じられないくらいの月日が流れていた。
父は,退役間近だったらしい。俺と最後に別れの抱擁をしたとき,父の胸はまだ分厚くたくましく,焼けた肌の陽の匂いが心地よかった。しかし墓所で眠る腐りかけた父は,一回りも二回りも小さくなっていて,深く刻まれた身体中の皺が彼が老人になりかけていたことを物語っていた。
ましてや母や妹,弟の姿には衝撃を受けた。
妹や弟は当然といえば当然だが家族を持っており,妹の息子などはすでに成人していた。
目の前にいる妹は,確かに妹の顔をしていた。しかし額や口許には深い皺が刻まれ髪には白髪も混じり,その傍らに立つ俺の「甥」は俺と同じ年格好をしていたのである。
そして。
俺を見る彼らのその眼。
それは化け物を見る眼だった。
聖地と外界との時間の流れは違う。俺を送り出したとき,母も弟も妹も,そのことは理屈では分かっていたはずなのだ。しかし現実に二年分しか年をとっていない俺を目の前にして,彼らは懐かしさや家族の情愛ではなく不気味さと理屈抜きの不快感を感じてしまったのだ。
聖地にあがったあのとき,彼らの家族の一員だったオスカーは死んだのだ。俺はこの星では生きていてはいけない存在だったのだ。
なぜだ。
どうして俺は守護聖なんかになった!
俺は自分を呪った。自分が疎ましくて情けなくて悲しくて―――世の不幸を自分一人が背負った気になった。
夜の草原に一人,月明かりを浴びながら俺はぼんやりと星を見つめた。
聖地のある主星はどの辺りにあるのだろう。だが,もう帰るまい。このままここで,朝が来たら消える露のように消滅してしまいたい。ひととして生まれてきたのにひととしての在り方からはずれてしまった。もうこれ以上生きていくのは辛すぎる―――。
膝を抱いて座っていたその背後に,微かに衣擦れの音がした。
振り向くと,そこに,月光にその豊かな金の髪を蒼く光らせた彼が―――ジュリアス様が立っておられた。
「ジュリアス…様…!」
「……探したぞ,オスカー」
俺は無意識に立ち上がっていた。
「炎のサクリアが不足して困った事態が起きている。すぐに聖地に帰るのだ」
ジュリアス様は穏やかに言われた。あまりにも静かな口調だったので,俺はそれに甘えてしまっていた。
後で知ったことだが,その時宇宙に生じた混乱を収拾するために尽力なさったのはもちろんジュリアス様だったのだ。そのことをジュリアス様は俺には一言もおっしゃらなかった。しばらくたってからその事実をルヴァやディア様から聞いて,俺は瞠目したのだ。
それなのに,あの時の俺と来たら。
自分一人が悲劇の主人公になったようなつもりでいた。
「……帰りません。俺は,もう……守護聖であることが………」
途端に頬が弾けた。
蒼い光の中,俺の頬を打ったジュリアス様の手が白く光っていた。
「甘えるな」
「…ジュリアス様…」
一瞬,ジュリアス様の瞳が翳った。
その影の青さが今も俺の目に焼き付いて離れない。
「……また私を一人にするつもりか」
低く,呟くように,ジュリアス様はそう言われた。
目が覚めた。
また,という言い回しにどれだけの想いが込められていたのかが今なら少し分かる気がする。
およそ家族の情愛というものを知らずに育ってきたその生い立ち。
初めて心許した大人であったろうに,突然に別れなければならなかった前の闇の守護聖。
複雑な想いを抱きつつ背中合わせにしか生きられなかったクラヴィス様との日々。
そんなジュリアス様の心情が一気に身体に流れ込んできて,そして,俺は電撃にも似た感動が脊髄を走り抜けるのを感じたのだ。
俺はジュリアス様に必要とされている!
そのことを,俺は震えるような思いで認識した。
俺が,ジュリアス様の支えになっているのなら。ジュリアス様が一人ではないと感じるその傍らに俺が居るのなら。
「俺は…」
「行くぞ,オスカー」
トーガの裾を翻したジュリアス様の後を,俺は駆けるようにして追った。
俺の居場所は聖地なのだと,ジュリアス様のおそばなのだと,その時初めて俺は守護聖になった喜びを心から味わっていた。
・◆・
「オスカー様?」
よほど難しい顔をしていたのだろう。
アンジェリークが心配そうに俺の顔をのぞき込んでいた。
「どうかなさったんですか?」
「いや,なんでもない」
「変なオスカー様」
アンジェリークはくすっと笑ってその綿毛のような金の髪を揺らした。
「それよりもさっきの段取りのお話,聞いていらしたんですか? なんか心ここにあらずって感じですよ?」
飛空都市をあとに聖地へ帰ってきてから,ひどくめまぐるしい日々が続いている。
女王試験はロザリアに軍配があがった。青い髪の女王候補は三日後,正式な女王として至尊の玉座に座る。
そして彼女とその座を争っていた金の髪の女王候補は,補佐官として聖地にとどまることになった。補佐官であると同時に,この俺のたった一人の,生涯の伴侶として。
「一日で三つもセレモニーをやっちゃうって,しんどいですよねぇ。ジュリアス様は一度にやってしまうのがいいっておっしゃいますけど,最後にはみんな疲れちゃうんじゃないかしら」
そう言ってアンジェリークはくすくすと面白そうに笑う。
その幸せそうな笑顔が,俺をこの上なくあたたかい気分にさせる。そして同時に,形容のしがたい切なさが胸を噛む。
女王の戴冠式と,補佐官の認証式と,そして俺達の結婚式と。
三つのセレモニーが挙行され,三日後,俺達の生活はがらりと変わるのだ。
その準備に聖地はあわただしく動いている。ことに陣頭指揮を執るジュリアス様のお忙しさはただごとではない。
だから,昨日ジュリアス様の執務室に呼ばれたときは,てっきりその儀式関係のことだと思っていた。もちろん俺達の結婚式の段取りについてはジュリアス様が差配なさってるわけではなく,あくまで俺とアンジェリークが考えて行っていることではある。しかし何と言っても守護聖と補佐官の身の上にかかわることだ。何かその中身についてお話があるのか,はたまた戴冠式や認証式のことについてか。
執務机の上に山と積まれた書類から顔を上げ,ジュリアス様は俺を認めると,小さく咳をなさった。
そして,しばらく儀式のプログラムのことやロザリアとの細々とした打ち合わせのことについて指示をなさった後,最後に少しトーンの低まった声でおっしゃった。
「アンジェリークは…どうしている?」
「無邪気なものです。今朝も早くからロザリアと打ち合わせがあったとか言って,俺のところへ顔を出したのは昼過ぎでしたよ」
三日後からは俺の館でともに暮らす予定ではあるが,今のところアンジェリークは宮殿の客間の一室で寝起きしている。
「オスカー」
ジュリアス様の視線が床に落ちた。
俺はどきりとした。
こんな顔のジュリアス様を見たことはなかった。微かに感じていた胸の小さな渦が,急にごうと音を立てた気がした。
「………こんなことを言うのは自分でもどうかしていると思う。もしお前でなかったら言えないだろう。…しかし言わずに後悔するよりは,どう思われても良いから頼もうと決心した」
ジュリアス様が視線をあげられた。
「………明日一日,アンジェリークを遠乗りに誘ってよいか」
言葉がなかった。
孤高の高みに生きてこられた人。その使命に与えられる賛辞とひきかえに,人間らしい喜び少なくして今日まで歩いてこられた人。
誰よりも自分に厳しく,そしてその厳しさと同じつよさで常に前を向いて顔を上げてきた人。
尊敬してやまぬ,光の守護聖。
その彼が,愛した少女がいた。俺はジュリアス様にとってアンジェリークが特別の存在になっていくのを,そばでずっと見て,知っていた。
しかしまた俺も彼女を愛していたのだ。
ジュリアス様のお気持ちを知ったとき,ほんの一瞬,彼のために身を引くべきかとも思った。しかし俺は瞬時にその考えを打ち消した。
そんなことをしてジュリアス様がお喜びになるとは思えなかったからだ。それは彼の誇りを傷つけるだけでしかない。
だから俺は,アンジェリークへのいとおしさを惜しげもなく露わにした。正々堂々と,アンジェリークを求めた。もちろんジュリアス様も同じように彼女を求めたのだ。
そして。
彼女は迷うことなく俺を選んだのだった。
ジュリアス様にとっては,残酷すぎる選択だった。
俺は,ジュリアス様の青すぎる瞳を正面から見つめた。
おそらく一生に一度のわがままを口にしたその瞳は,切ない光に満ちて揺れていた。
「きっと…彼女は断らないと思います」
俺は,ゆっくりと笑んで言った。つくり笑いでも,同情の笑いでもない。
ジュリアス様もまた守護聖である前に,悩み苦しみ,そしてそれでもたくましく生きようとする一己の人間なのだ。俺はやっと心からそう思うことが出来た。それが嬉しくて,そして切なくて,その想いを微笑みに載せることしかできなかったのだ。
「きっと今,補佐官室かロザリアの私室にいるのではないでしょうか。伝令を出向かせたら,すぐにも来るでしょう」
ジュリアス様は小さくうなずかれ,そして小さく「すまぬ」と,それだけおっしゃった―――。
・◆・
「…もう,オスカー様ったら!」
はっとして傍らを見ると,アンジェリークがふくれっ面をして俺の腕をとっていた。
「今日の遠乗りの話をしてるんですよ! オスカー様のだーいすきなジュリアス様との!」
「あ,ああ,すまん」
土の曜日の執務室は,夕方のほのあかるい茜色に染まっていた。
明日の日の曜日,聖地は華やかな祝祭の宴に包まれる。
「とっても楽しかったんですよ。飛空都市での思い出話をしたり…,そうそう,補佐官としての心得なんかもお話ししていただいて」
「そうか,それはよかった」
「でね,今度は三人で遠乗りに来ようっておっしゃっておられました」
「三人で…」
「ええ。それまでにオスカー様によく乗馬を習っておけって。あの白馬に二人乗りでしょ,馬に悪いコトしちゃったなぁって私も思いました」
アンジェリークはぺろっと舌を出して屈託なく笑った。
「ね,オスカー様,私でも馬に乗れるようになりますか?」
「…もちろんさ。俺が手取り足取り教えてやるぜ。ああ,そうだ,もうすぐジュリアス様のところに仔馬が生まれるはずだ。それを君の馬にもらい受けられるよう,お願いしてみよう」
「わあ! 嬉しい,オスカー様!」
三人であの遠乗りの丘に。
俺はほんの僅か,鳩尾の奥を絞る切なさに胸を噛まれた。
そして同時に,これからもジュリアス様のおそばにお仕えできることを幸せに思った。
心から尊敬し,敬愛する,光の守護聖。
ジュリアス様,あなたに会えてよかったと。
・◆・
・◆ FIN ◆・
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