鵲の橋

2001.11.2 ・◆・合歓




 霧が濃くなってきた。
 俺は少しだけ不安になって、彼女を呼ぶ。
「アンジェリーク!」
と。
 仄白い空間を透かすようにして、金の髪の乙女を捜す。
 少し離れたところから、彼女の声だけが返ってきた。
「オスカー様、どこにいるの?」
 声のした方へ歩を進めながら、俺は濃度を増した霧の中へ、手を差し伸べる。
「アンジェリーク、こっちだ!」
「オスカー様!」
 だが、どんなに霧の中を探っても、アンジェリークに俺の手は届かない。
「どこだ!? アンジェリーク!」
 また少し離れたところから彼女の声が聞こえた。
「オスカー様、こっちです!」
 俺は、その声を頼りに、濃いミルクのような霧をかき分ける。
「オスカー様・・!」
 届かない。どうしても・・・。
 なぜ、君は俺の所へ来てはくれないんだ?
 こんなに、俺が手を差し伸べているのに―――


 ミルク色の霧が、ふいに大きな翼を持った鳥に変わる。
 何羽も、何羽も・・。
 夥しい数の鳥。
 羽ばたく音が俺を圧する。
 何だ? この鳥の名は、何と言っただろう・・?

 その中に、一人佇む、俺の愛した少女・・。
 バサリと新しい羽音が聞こえた。
 その背にあるのは―――


「オスカー様?」
 いきなり耳元で声がして、俺ははっと飛び起きた。
 薄明かりの中に、アンジェリークの顔が浮かんでいる。
「どうなさったの? 何かご用ですか?」
 ベッドの端にちょこんと腰掛け、彼女は心配そうな表情を俺に向けた。
「ずいぶんうなされてたみたい。隣にいたんだけど、オスカー様ってば何度も私を呼ぶんだもの・・」
 俺はまだ呆けている頭を振った。
 隣・・、彼女の執務室だ。
 ということは、俺はあのまま寝ちまったのか?
「今、何時だ?」
 肘で身体を支えたまま俺が聞くと、しぶしぶといった体でアンジェリークは柱時計を見やって答えた。
「・・・3時・・」
 明け方じゃないか!
 4時には衛兵の交代もある。
 それも気になったが、
「こんな時間まで仕事か?」
少し青白い顔のアンジェリークに尋ねた。
 アンジェリークはもう一度、しぶしぶ頷く。
「・・俺のせいだな・・」
 そうだ・・。彼女の都合も考えずに、いきなり訪れた俺の・・・。
「そんなことない! 昼間、ちょっと予定が立て込んでいて、ずれ込んじゃっただけなんですっ! オスカー様のせいじゃない!」
 彼女は激しく首を振る。
 だが、俺がここに来なければ、もっと早くに終わっていたはずなのだ。
 俺とて彼女の貴重な時間を奪いたかった訳ではない。
 ただ、無性に会いたかった。この腕に抱きたかった。それだけなのに・・。
「・・すぐ終わるから。気にしないで?」
 そう言って、アンジェリークは俺の胸にその金の髪をもたせかけた。
 このまま、もう一度抱きたい。
 俺はぎゅっと彼女を抱きしめた。


「もう、帰らなくちゃ・・」
 しばらくそのまま抱き合っていたが、やがて腕の中で天使が呟く。
 帰るのは彼女じゃない。俺の方だ。
 警備にあたる衛兵は、午前4時きっかりに交代する。その前にこの部屋を出て行かなくては、きっと彼らに見つかってしまうから・・。
 ここは宮殿。ここは、奥宮―――女王の、プライベートゾーンだ。
 今度は、俺がしぶしぶと腕を緩める。
 行きたくない。それが正直な気持ちだ。
 このまま、彼女を抱いて、一緒に陽が昇るのを見たい。
 朝食を共にしながら、一日の予定を話し、キスを交わして、それぞれの仕事に赴く。
 そんな、ささやかな願いすら叶わない、彼女と俺の、立場―――女王と、炎の守護聖―――。

 逡巡を振り払うように、俺は勢いをつけて起きあがった。
「すぐ終わるんなら、少し休んでもいいだろう?」
 アンジェリークを、俺の代わりにベッドに押し込めて、シーツでくるんだ。
「でも」
 起きあがろうとする彼女を片手で押さえて、その唇にキスを落とす。
「寝てろよ、お嬢ちゃん」
 冗談めかしてそう言い、俺は手早く支度すると、彼女の部屋を滑り出た。
 閉めたドアの向こうで起きあがる気配がした。衣擦れの音が、執務室へ戻る彼女を明確に伝えてくる。
 仕方ない・・。互いの責務をきちんと果たすこと・・、それが俺たちにとって唯一、この関係を自衛する手段だったから。


「鵲の橋を渡るようにはなりたくないです」
 初めて抱いた夜、君は腕の中で呟いた。
 鵲の橋・・、その意味がわからなくて、俺は聞き返した。
「ルヴァ様が話してくださったの。どこか、遠い星の伝説・・・」
 天空に住まう男と女がいて、当たり前のように恋をし、互いしか見えなくなった。
 それぞれに与えられた責務を放り出して、ただ恋に溺れていた二人に、天の神が罰を下した。
 引き離されたのだ。
 悲しみに暮れながらも、また元のように仕事に精を出す二人を哀れんで、神は年に一度だけ、会うことを許した。
「広い、広い、天の川という川のあっち側とこっち側から、二人は、鵲という鳥が集まって架けた橋を渡って会うのですって」
 年に一度会えることを、その二人はよしとした。
「でも、私は嫌です。・・毎日でも会いたいのに、一年に一回だなんて、そんなのイヤ!」
 冷静に考えれば、それですら無謀な望みだった。
 女王と守護聖―――恋愛に陥ることなど許されるはずもない。まして、絶対不可侵の女王を我がものにすることなど・・・。
「それに、ルヴァ様は私を見つめておっしゃるの・・。『これはどこかの星の伝説ですから、二人の逢瀬が許されるのですが・・・』・・って。・・・私、怖くなってしまって・・。もしかして、ルヴァ様は、私の思いに気がついておいでなのか・・って。・・何もかも振り捨てても、オスカー様が恋しい、この、私の気持ちに―――」
 涙声になったアンジェリークの唇を、俺は自分の唇で塞いだ。哀しい声は聞きたくなかった。
 愛すれば愛するほど、女王である彼女を苦しめることになるのか・・!
 行き場のない思いは、深い口づけになり、彼女は苦しそうに俺を押しのけた。
 じっと俺を見つめる瞳は、濡れてぎらつく輝きを放っている。
「オスカー様、私、今までの誰よりも女王らしい女王になります」
 その言葉は、鋭い剣の切っ先のように、俺の胸を抉った。
 一年に一度が受け入れられないのなら、いっそ今宵限り・・と、アンジェリークは思い切ろうとしているのか。
「昼間は、一生懸命女王として努めます。オスカー様にだってなれなれしくしない。きちんと責務を果たしていれば、誰も気がつかないわ・・、きっと」
 だから、夜だけは二人の時間だ・・と、君は頬を染めた。
 俺は、その頬に口づけて、君の決心を受け入れた。
 君が、女王たらんとするのなら、俺は誰よりも君に忠誠を捧げよう。
 昼は忠誠を、夜は永遠の愛を、君だけに送り続けよう。
 その誓いを刻みつけるため、俺はまた、アンジェリークを愛した。
 その日から、<鵲の橋>は、二人の合い言葉になったのだ。


 朝靄が、ミルクのように濃く辺りを包んでいる。
 夢に見た風景と似通って、俺は、あの夢の中の心細さを思い出した。
 早く自邸に帰っておかねばならない。
 こんなところを見つかっては彼女に迷惑がかかる。
 少しでも宮殿から遠く離れようと、俺は足早になった。

 バサバサッ―――!

 鳥の羽音が、俺の足を止め、そして、一瞬鼓動を止めた。
 一羽の鳥が、靄をかき分けて空へ舞い上がった。
 鋭い鳴き声が、しんと静まった朝の空気を切り裂いた。

 ・・・あれは?

 夢と同じ展開に、俺は頬をそそけだたせ、噴き出す悪寒と戦いながら、小径を辿った。




「ア・・、陛下が倒れた!?」
 動転した気持ちを静めるため、俺はしばらく庭園を歩き回り、自邸に帰ったのは、いつもの朝食の時間をとうに回った頃だった。
 執事が俺の顔を見るなり、そう告げる。
「宮殿からお知らせがございまして。ジュリアス様が何度も直接ご連絡を下さったのですが・・・」
 朝帰りには慣れっこの執事だが、今日はさすがに非難めいた表情を隠そうともしない。
 首座の守護聖直々の呼び出しは、執事にも事態の深刻さを思わせるに十分だったらしい。
「支度する」
 言い訳などできようはずもなく、俺は執事に手伝わせて、衣服を改め、明け方出てきたばかりの宮殿を目指して馬を走らせることになった。


 駒止に馬を置いて、すぐジュリアス様の執務室へ赴いた。もう、他の守護聖たちは集まっているだろうか。
 ノックをして執務室にはいると、そこには意外にもジュリアス様お一人が、いつも通りにデスクに向かっておられた。ことさら怒っておられる様子でもなく、その沈着さがかえって俺を不安にした。
「陛下が倒れられたということですが」
 挨拶もそこそこに切り出す。
 ジュリアス様の、蒼の瞳が俺を見据える。
「心当たりはないか?」
 いつもと同じ、深みのある声が、俺の臓腑を抉った。
 ―――ジュリアス様は、知っておられる?
「は?」
 それでも俺はとぼけた。
「<鵲の橋>を渡りたくないの・・」
 彼女のその一言が、俺に真実を告げるのを躊躇わせた。我ながら、弱気だとも、卑怯だとも、思う。俺は炎を、強さを司るこのサクリアのままに、きっぱりと告げたかった。女王を愛しているのだと。女王とはわりない仲にあるのだと。そして、今日も女王の寝室から帰ってきたばかりなのだ・・と。
 だが、俺には言えない。アンジェリークの、その切ない願いを受け入れると誓ったのだから。
「あるのだな?」
 そんな俺の逡巡を、ジュリアス様は察せられ、ふっと溜息をもらされた。
「衛兵から報告が入っている。陛下が即位された直後からずっと・・」
 俺は息を呑んだ。
「そちらには、他の理由をつけて納得させてある。・・補佐官からも報告を受けている」
 そうだ。あのロザリアが、親友の変化に気がつかないはずがないのだ。
「それに、女王陛下ご自身が―――」
 まさか、アンジェリークが、自ら俺たちのことを告げたのか?
「うわごとで、おまえを呼んでいる。・・『オスカー様』と」
 昨夜・・いや、今朝方の、青白いアンジェリークの顔が瞼をよぎった。
 限界なのだ。
 こういう逢瀬も、そして、その逢瀬がもたらす不安も。
「陛下は繰り返しおまえの名と、<鵲の橋>・・と呟かれている。・・それについては置くとしよう・・。が、<鵲の橋>とは―――」
 ジュリアス様の蒼い瞳は、時折俺の氷青色よりも、もっと冷たく抉るような輝きを持つ。守護聖としての品格を疑うような、そういう事例に接したとき、ジュリアス様の深い海色の瞳が、淀んだ濁りを少し加味されるのを、俺は何回か見たことがある。
 が、それがまさか己に向けられようとは思わなかった。
 否、向けられる日が来ることを思いもしなかった、この無防備な俺がいることに気がつかなかったのが愚かなのだ。
 着任した時、ジュリアス様ご自身に迎えられ、そしてその後も何くれとなく目をかけて頂いた。俺も、ジュリアス様の片腕と評されるのが自慢だったし、そのように努めてきた。
 だが。
 こと、この問題に関しては、俺は心のどこかで、ジュリアス様を見くびっていた―――もっと過酷な語彙を選べば、「貶めていた」ということかもしれない―――ことに気がついた。女性には疎いお方だ・・と、誰にわかったとしても、この方が気づくのは最後だと、そんな風に思っていたのだ。
 押し黙って立ちつくす俺を、ジュリアス様の吐息が上向かせた。
「<鵲の橋>か・・」
 長い衣を難なく捌き、ジュリアス様は中庭を見下ろす窓辺に立たれた。
 ジュリアス様は俺を見据え、一瞬だけ目を反らした。
「・・・オスカー・・」
 その白磁のような頬に刻まれた含羞を俺は見逃さなかった。
 何をおっしゃりたいのか・・・?
 俺は、ジュリアス様の真意をはかりかね、相づちも打てず、ただ木偶のように突っ立っていた。
「・・これは、独り言だ―――」
 低い声で、そう呟かれたジュリアス様は、一つの物語を紡がれた。




 昔、守護聖がいた。
 頑なな男で、女王陛下への忠誠だけが信じるに足る、その男の拠り所であった。
 長く守護聖として聖地にあって、人の心の機微にも疎い。
 そんな男が、女王候補の一人として聖地にやってきた、少女を愛してしまった。
 気弱な少女であった。
 触れれば溶けてしまいそうな髪と、不安げな、それでいて暖かい微笑み。
 初めて男は女性というものを意識した。
 それまで男が仕えた何代かの女王も、その補佐官たちも、そして宮殿に働く女官たちも、みな女性であるというのに、その男にとってのただ一人の「おんな」とは、その女王候補であったのだ。
 男は、己の初めての恋をどうやって表したらよいか、悩んだ。
 と同時に、守護聖たる自分の真になすべきことは何か、それにも悩んだ。
 そして、彼にとってもっとも自然な愛情の発露―――少女を女王として盛り立て、忠誠を捧げる道を選んだ。
 現陛下をお選びしたような試験が行われていたわけではないから、その男の為したことは、専ら候補である少女への帝王教育であった。
 執務室に彼女を招き、数多の資料を見せては説く。
 日を重ねれば重ねるほど、少女が聖地と女王の責務に精通していくのが、その男にとっては至上の喜びだった。
 一方で、少女の笑みは徐々に少なく、言葉も途絶えがちになっていた。
 迂闊なことに、男は自らの喜びにかまけて、その変化を見落とした。細い指がいっそう細くなり、ペンを走らせる手も震えがちなのに、いったい何を見ていたというのだろう。
 そして、ある日、少女は倒れた。
 ちょうど男が背後から書類を指していた、そのときだった。
 腕の中に頽れた重みが、男に、不安と歓喜、心配と欲望の、複雑に混ざり合った感情を呼び起こすのに、そう時間はかからなかった。
 緊張に青ざめた少女を抱き寄せ、口づけをして、男は愕然とした。
 この少女は、女王となる人ではないか―――
 男が我がものにしてよき人ではない。
 数瞬の間の出来事であったが、男に己の罪を自覚させるに十分だった。
 同時に、少女には絶望を自覚させる。
 少女もまた板挟みの思いに悩んでいた。
 守護聖である男を愛した。だが、男は女王候補である自分にだけ期待をし、教育の成果にのみ満足しているように見えた。
 気弱な彼女には、自分の思いを告げることなどできそうにもない。
 それが食欲を失わせ、安らかな眠りを妨げ、そして、倒れるほどに思い詰めさせたのだった。
 瞬間の口づけに歓喜し、そして、その後の男の拒絶に絶望した。
 彼女の思いは、やはり叶わぬのか・・と。
 二人はそそくさと謝罪を交わし、それぞれの深い思いに捕らわれつつ、また書類へと戻った。
 そんなことがあってから幾日が過ぎた。
 少女はあれ以来、口実を作って男の執務室を訪れなかったが、その宵、ひっそりとやってきてドアを叩いた。
 男は、自分の中に滾る感情を抑えられるかどうか自信はなかったが、それでも彼女を招き入れた。
 注意深く男から距離を置いて立った少女は、地の守護聖から聞かされたという伝説を語った。
 それが、<鵲の橋>にまつわる話だったのだ。
 男は、その内容にまたも打ちのめされた。責務を持った二人が禁断の恋をして、責任を全うしない。その罰として、一年に一度だけの逢瀬を許されつつも引き離される―――
 我々もそうなるのか・・?
 否、女王と守護聖とに、そのような逢瀬すら許されるはずはないではないか。
 女王は絶対不可侵だ。一守護聖の云々できる存在ではない。不可侵であるからこそ、遍く宇宙を治め、そして時空を導いていけるのだ。
 男の目に浮かんだものを、少女は理解しただろうか。
 二人には、<鵲の橋>すら、ないのだ。
 罪悪感と絶望・・。その根は違っても導き出された結論は同じだった。
 少女は今までの教えに感謝を、男は「よき女王になるよう」と言葉をそれぞれ贈って、二人の恋は終わりを告げた。


 そのころ、もう一人の候補である少女は、別の守護聖と恋をしていた。
 同世代であるその守護聖と、男との間には目に見えぬ確執があった。
 自らの罪を自覚した男の目は、その守護聖と候補に向けられた。
 何をしているのだ、あやつらは・・。
 彼女と私が、血の滲むような思いをして諦めた禁断の恋を、同じ立場のあのものたちが全うできるとでも思っているのか!?
 女王になるかもしれない少女と守護聖との恋を、男はその立場からも許すことができなかった。
 同僚に突きつけた断罪の言葉に混じる汚泥のような妬心を、男はそのときに自覚していたのかどうか。
 ただ、珍しく反論した同僚に答えるすべを持たなかったことが、いつまでも男の胸に残った。

 結果、男が愛した少女は、女王にはならなかった。彼が同僚との恋を引き裂いたもう一人の候補が女王となり、少女はその補佐官となって、男から受けた教育を生かした。
 彼女が女王にならなかったことで、二人の間から禁忌はなくなったはずだが、心にかけた枷は容易にははずせない。
 それが、男の気性であったし、少女の臆病さでもあった。
 彼女の親友の治世の間、男は女王に忠誠を尽くし、落ち着いた瞳の女性に成長した少女は、女王のために気を配る立場となって、お互いを支え、そして共に歩んだのだ。




 「男」と言ってはいるものの、それがジュリアス様ご本人の体験だというのは、見当がついた。遠い目をして見つめておられるかつての少女が誰なのかも。
「<鵲の橋>の話は、代々の地の守護聖に課せられた役目でもある」
 女王交代の時期、聖地に召された女王候補は必ず、この話を聞かされるのだという。
 守護聖は女王に尽くすことが一義と教育される。そして、女王は絶対不可侵の存在である・・とも。
 だが、まだ学業半ばで召される女王候補は、市井の暮らしを知っているだけに想いのままに振る舞いかねない。
 だからといって、守護聖と通じてはならない等と、当の守護聖に言えるのか・・? そのジレンマが、地の守護聖に伝説を語らせるという不文律になったのかもしれないかった。
 守護聖と女王が、男と女として在らぬように・・と。
「・・たいていはそれで淡い想いを諦める・・。だが」
 そう・・、アンジェリークは諦めなかった。
 俺とても彼女を諦めきれるかどうか、自信もなかった。
 それだけ、惹かれあった俺とアンジェリークだったのだ。
 恋に身を投じて一年に一度の逢瀬しか望めなくなる、いや、それすらも許されなくなるのであれば、用心深く恋を成就させようと、そのためには誰よりも女王らしい女王になればよいのだと、そんな風に彼女はその話を自らの心に位置づけた。
 が、伝説の持つ力は、彼女の心を深層で縛っていたのかもしれない。
 俺と責務との板挟みになって、頬のバラ色は褪せていったではないか。
 誇りを司る光の守護聖、そして、守護聖の首座たるジュリアス様が、女王候補との恋に踏み切れなかった、そのお気持ちは痛いほどよくわかる。
 守護聖としてはジュリアス様のとられた行動こそが正しいのだ。
 俺はきつく唇を噛んだ。
 アンジェリークの切ない瞳が蘇る。
 女王として彼女が負うた白い羽音が聞こえるようだ。
 俺は、愛する女を、ただ窮地に追い込んだだけなのか―――。
 それならば、いっそのこと、彼女を盗んで逃げればよかったのか・・?


「時代も、状況も、ずいぶんと違ってきた・・ということなのだろうな」
 やがて、ジュリアス様は椅子に戻られると、俺を見た。
 その瞳に、先刻のような、冷たい蒼は窺えなかった。
「・・・もって生まれた気性の違いもか・・・」
 深い吐息が、またジュリアス様の口から漏れた。
「それとも、男の気概の差か」
 俺を見るまなざしがふと緩んだ。
「<鵲の橋>・・か・・」
 誰にともなく、ジュリアスさまはそう呟かれ、そして、トンと一つ机を叩いた。
「今の陛下には、前陛下とは違う責任がおありだ」
 新しい宇宙には、新しいやっかいごともある。今までの女王陛下のように、サクリアを繰ってバランスよく宇宙を導いていくだけでは駄目な場合もあるのだ。だからこそ、アンジェリークもあんなに遅くまで―――
 俺の物思いを、ジュリアス様の声が遮った。
「聞いているか、オスカー?」
「はっ」
 俺は姿勢を正した。
「おまえの<橋>は、月に一度ならば、よいであろう?」
 瞬間、何を言われたのか、理解できなかった。
「おまえの屋敷は使うでない。外聞をはばかることではあるのだぞ。・・そのあたりよく肝に銘じて―――」
 俺は呆けた顔で、ジュリアス様に問い返した。
「それは、陛下とのことをご許可くださるという・・・」
「公にするわけにはいかぬが、先ほども言ったように、現陛下の責務は、我々守護聖だけでは支え切れぬほど大きくなっている。・・・陛下の内面をお支えできるものが必要になってきているのかもしれぬ・・。おまえのような存在が・・な・・」
 俺は自分の耳が信じられなかった。
 ジュリアス様は、俺の存在を許す・・と、そうおっしゃっているのか?
「思い切った手段に出られては困るからな。・・私は、現宇宙の女王である陛下も、私の信頼する部下も、どちらも失いたくはない」
 絶妙のタイミングでノックがあって、藍の髪の補佐官が入ってきた。
「目覚められましたわ。・・陛下にはわたくしから申し上げておきました」
「そうか」
 ジュリアス様の執務机の横に立ち、彼女の親友は微笑んだ。
「わたくしでは役不足のようですし、悔しいですけど、陛下をお慰めする役目はお譲りしますわ、オスカー様」
 俺は、ただ頭を下げた。
 何もかも承知の上で、ジュリアス様と補佐官は、アンジェリークと俺を生かす道を探っておられたのだろう。
 もう、白い翼を駆って彼女が離れていってしまう、そんな予感に怯えなくてもよいのだ。
「一月に一度の<鵲の橋>を、きちんとアンジェリークに納得させてくださいませね?」
 勇躍部屋を飛び出そうとした俺を、補佐官の投げた難題が振り向かせた。
 いや、恐るるに足らず・・だ。彼女を失う恐怖に比べれば、立ち向かうのに躊躇いはない。
 再び俺は頭を下げると、宮殿の回廊を飛ぶように駆けた。
 どこかでまた羽音が聞こえたが、それすらも俺の足を止める妨げにはならなかった。


「驚きましたわ・・。」
 オスカーが去ったのを見計らって、ロザリアが呟いた。
「何が?」
「オスカー様にあんなお気弱な面がおありだったなんて・・」
 ジュリアスは苦笑した。
「・・陛下がお強くていらっしゃるからだろう・・・」
「そうでしょうか・・?」
 心につかえていたものが、さっぱりとなくなってしまった快さに、ジュリアスは久々に笑った。
「真に愛するものの前では、男は臆病な生き物だと、いにしえびとたちが言っているが・・」
 その声に驚いて、ロザリアはジュリアスを見つめた。こんな風に笑えるお方だったのかしら・・、この方は・・。
「加えて女性の方が気強い場合、オスカーの強さが出る幕はないのかもしれぬぞ」
 そうだ。
 <鵲の橋>はもともと人が架けたもの。はずせぬ枷ではないのだ。
 それに囚われたのは、我々に心弱さがあったからにほかならぬ。
 <鵲の橋>の逸話を語る地の守護聖の役目も、今日限りになってしまったな・・・。
「ジュリアス様?」
「ああ・・、ロザリア、そなたもご苦労であったな。・・エスプレッソでも飲んでいかぬか?」
 ロザリアを茶に誘いながら、ジュリアスは去っていったもう一人の補佐官に思いを馳せた。
 このように早く、彼女の言葉が真実になろうとは・・。


・◆・


 彼女と私は、お互いに女王になろうと決めていたのでした。
 親友の恋を成就させるために。

 だが、それは悉く叶わぬ夢であったな―――私というものの存在のために。

 いえ・・。あなたのせいではないのですよ。
 私にしても臆病な娘でしたし。
 それに、私たち、お互いにこの宇宙を捨てきれなかったのでしょう・・。
 自分のささやかな幸せとは天秤に掛けられないくらい、この宇宙が好きだったのかもしれませんわね。
 それとも、未だ幼かった・・ということなのかもしれません。
 宇宙よりも何よりも、あなたやクラヴィスの方が大切・・、そう言い切れなかったのですもの。

 私が、守護聖としての矜持を捨てきれなかったように・・か?

 ええ、クラヴィスだって結局「守護聖」であったのでしょう・・・・・。
・・・・・・・・・・・。
 ―――そして、いつか・・・。

 何だ?

 いつか、現れますわ。
 この宇宙より、女王の責務より、自分よりも、守護聖の誰かを愛してしまう女王が。
 私たちにはできませんでしたけど、もっと時代が進めば、聖地とはまったく違う価値観を持った女王候補が現れましょう?
 そのとき、あなたはまだ守護聖の長としておられるかしら?

 それは・・・・。

 それに、守護聖にだって、宇宙中の鵲を閉じこめて橋を架けようっていう無謀なことを考え出すものも出てくるかも・・。

 そなた、今、あの腕白どもの顔を思い浮かべたであろう・・!

 うふふ・・、彼らだけではありませんよ。
 あなたのお側にも情熱家はいらっしゃるではありませんか。
 でも、本当にそうなったら、どうなさいます、ジュリアス?

      
・◆ FIN ◆・



BACK ・◆・ HOME