翼ある使者 〜水星

2000.11.2 ・★・ 佐々木優樹 




飛べ 飛んで行け
言葉よ 想いよ
私の貴方の元へ




女王補佐官は静まり返った回廊を歩いている。その表情は険しい。
険しくもなるだろう。こともあろうに、翌朝一番に処理せねばならない書類を、未完成のまま執務室に置き忘れてしまったのである。有能を自負している彼女にとって、可成り不本意な失態であることは間違いない。
深夜の聖殿は不気味なほどに静かで、なまじ建物が豪奢なだけにその寂しさが際立つ。滅多な事には動じない補佐官ではあるが、流石にこの空気には慣れそうにはない。広く無機質な空間。
不寝番の兵たちにねぎらいの言葉をかけ、主尾良く目的のものを手に入れて帰ろうとした時、ふと謁見の間に人の気配を感じ、女王補佐官は踵を返した。
深夜まで聖殿に残って職務を行う者は皆無ではない。特に、宇宙移転の直後などは、補佐官や守護聖を含む職員一同が連日夜を徹して働いたものだった。しかし、そのような場合においても、謁見の間が開放されたことはない。
十分に警戒したまま重厚な扉を開けると、薄いカーテンに区切られた段差の上に薄明かりが差している。
そして、僅かな灯りを避けるかのようにぼんやりと揺れる小さな影    


影が、顔を上げた。


    陛下?」
玉座に座っていたのは、その場にそぐわぬ夜着を纏ってはいるものの、確かにその座にあるべき至高の娘。
金色の女神と称えられる唯一無二の宇宙の女王が、ただ静かに目を閉じていた。
「陛下、このようなお時間に何をなさっておられるのですか!?」
「ロザリアこそ、こんな所で何をしているの?」
「わたくしは執務室に用がありましたので戻って参りました。もう帰る所でしたが、こちらに人の気配を感じたもので確認に……」 「驚かせてしまったのね。ごめんなさい」
素直に謝る女王の姿は、まるでどこにでもいる普通の娘のようで、意外にも世話好きな女王補佐官の庇護欲をかきたてる。
「…ともかく陛下、どうぞお部屋へお戻り下さいませ。そのようなお姿、はしたないですわよ」
母親のように諭す補佐官に苦笑すると、女王は立ち上がるように促す彼女の手を緩やかに押し戻した。
「私はまだここにいるわ。ロザリアは気にせず帰っていいから」
「こんな所にあんたひとりを置いて帰れるとでも思って?」
途端に目を剥いて叱り飛ばすその姿は、彼女たちが女王候補だった頃から変わらない。宇宙も民も関係ない、ただの親友としての心遣いが暖かい。
「……アンジェリーク、ここは寒いわ。早く帰りましょう」
「ごめんなさい、ロザリア。悪いけど、本当に私はまだ帰るつもりはないの」
いつもの女王ならば、彼女に対する気遣いや労りを無にするような事はしない。しかし、今の女王は頑なだった。
女王補佐官は腕を組んで秀麗な眉を潜める。
「一体、何をしているの?」
「待っているのよ」
「…待っている?」
「そうよ、待っているの」
言葉の意味を測り兼ね、女王補佐官は不審げに女王を見る。女王は友人ではなくただ前を見据えたまま、うっすらと微笑んでいた。
翡翠の双玉が、ランプの灯火を映して緩やかに揺らめく。
「あの人が、無事に帰って来るのを」
女王補佐官は息を呑んだ。
女王の言葉に一切の固有名詞はない。
しかし、女王補佐官には分かる。
女王が誰を、何を指し示して言葉を紡いだのか。
紫紺の瞳が驚愕に見開かれるのを心底面白そうに見つめ、女王は彼女の友人に微笑んだ。
「私に隠しているつもりだった?」
「…アン…ジェリーク…」
「…ロザリアやジュリアスから見れば、私はまだまだ頼りないのかもしれなけど……でも……私は女王なの」
女王が笑う。
女王候補だった頃とは違う微笑みで。
「私は女王なの。少なくとも、私の守護聖達のサクリアの発生源を感知出来るほどには、私も未熟ではないのよ。あの人が……ここにいない事くらい、すぐに分かるわ」


……知っている。
幼く見えても、拙く見えても、それが彼女の真実ではないことを。
彼女は女王。大地から飛び立った天の星。
輝くことを宿命付けられた、翼ある導き手。


陥ちることの許されぬ太陽    


「独りで行ったんでしょう?」
嘘を許さない強い光が紫紺の影を包む。
「……ごめんなさい」
勝ち気な補佐官の珍しく殊勝な態度に、女王は責めているわけではないと首を振る。
「ううん、いいの。分かってるもの。ロザリアは私に余計な心配をかけないように黙っていたのよね? 多分…あの人がそうするように言い残して行ったんでしょう?」
「それは……」
「分かるわ。他の誰でもない、あの人のことだもの」
女王は補佐官に背を向け、誰に話すともなく呟いた。
「…あの人はいつだってそうだわ。誰かに心配をかけたり、誰かが傷つくことが人一倍嫌いなの。親しい誰かを危険に晒すくらいなら、自分が傷つく事を選ぶ人よ。大切なもののためなら、笑って盾にも踏み台にもなれる……そういう人だから……」
数時間前、ある惑星に一人の男が降り立った。
悪意と混沌に汚染された星。人々は互いを労る心を失い、親兄弟といえども憎しみ合い傷つけ合う、ただ力のみに支配された惑星。
人の想いの力は強い。その力は善悪に関わらず、空間を超えて周囲の星々にさえも影響を与える。誰かの誇りは別の誰かの誇りに続き、誰かの殺意は別の誰かをも悪鬼に変える。
伝染を防ぐ方法は決して多くはない。


浄化か。
それとも    


    消滅か。


「…私には、分かる。あの方が何を思い、何を言い残して戦場に行ったのか」
女王補佐官からは見えないが、翡翠の瞳はここにはいない者を探すかのような色に染まっているのだろう。
生命の危険に晒されているであろう男を想う女王の声は、あくまでも柔らかい。
「移転後の宇宙の戦乱は、自分がエリューシオンに炎のサクリアを贈りすぎたことも原因のひとつには違いないと……自分にも責任の一端はあるのだと、言っていたでしょう?」
「…………」
「あの人は言ったはずよ。この世界を護りたいのだと。私の愛する世界を支えたいのだと」
補佐官は、黙って女王の声に耳を傾ける。
彼の人が自ら外界に降りたのは、惑星の消滅ではなく存続を望むが故。
星を民を愛し、如何なる理由があろうともその消滅に嘆かずにはいられぬ女王を想うが故。
しかし、彼の人の言葉を女王が知るはずはない。見送った者は彼の同僚だけで、その言葉が女王の耳に入っているはずはない。
それでも、女王は疑いのない瞳で言葉を紡ぐ。
「言ったはずよ……私のために、生きて帰る…と……」


彼らはどこまで繋がっているのだろう。
その指が触れ合う一瞬さえも許されないというのに。


女王がまだ唯の人であった頃、あの空に浮かぶ都市で彼らは出会った。
時の女王に託された民を導くよりも早く、競い合う少女との友情を育むよりも早く、同じ幸福に向かって走り出したふたつの心。
誰もが夢見るような、誰もが懐かしむような、優しい想いで満たされた場所。
彼らの行く手にある未来を、誰もが信じて疑わなかったあの頃。


幸福は成就しなかった。
少女は何も言わず至高なる天へ羽ばたいた。
青年は黙って見送った。
終焉に泣く、哀れな世界の為に。


彼の守護聖が女王に目通りの叶う事は殆どない。
言葉を交わす事など、更に望めない。
目に見えるカーテンよりも絶対的な何かがふたりを隔て、同じ場所で微笑み合うことさえも許さない。 雨上がりの庭園に響いていた笑い声は、もう、重なることはない。
木漏れ日の中、寄り添いながら歩いていた青年と少女は、もう、どこにもいない。


それでも    


心は    同じ空へ……


女王補佐官は目を伏せて息を吐いた。
おそらく、自分が何を言っても女王をこの椅子から引き剥がす事は出来ないだろう。    否、言葉さえも聞こえていないかもしれない。
女王を動かす事が出来るのは、女王自身と彼をおいて他にない。
サクリアも立場もそして距離さえも、自分のほうが彼よりも遥かに女王の近くに在るというのに、女王にとって意味を為す唯一の声は彼の人のものなのだ。
「…少し…妬けますわね…」
驚いて女王が振り返る。
苦笑混じりに呟いた女王補佐官の表情は優しい。
「絆が見えるわ。見えないはずの絆が。あんたたちの声を抱いて飛ぶ、翼のあるメッセンジャーの姿が」
「ロザリア」
「わたくしは、そういう意味ではあの方には勝てませんわね。全ての距離を打ち壊す絆に勝てる者などいるはずがないわ」
姿の見えぬものほど強固なものはない。決まった形のないものを崩すことは容易ではない。それは時に姿を変えながら、互いに溶け合い、より輝きを増すのだろう。
友人にとって自分が一番になれないのは悔しいが、それも良い。
女王が幸福ならば    


補佐官はひとつ咳払いをすると、生真面目な職務の顔に戻って恭しく頭を下げた。
「それでは陛下、わたくしはこれで失礼いたしますわ。くれぐれもお風邪などお召しになりませんように」
「ありがとう、ロザリア。あの人がお戻りになったら休むわ。大丈夫、あの人はすぐに帰ってくるから」
「当たり前ですわ。陛下をこのような寒い場所にいつまでもお待たせるするような方ならば、このわたくしが許しませんことよ」
けれど、知っている。
女王が確信するものは必ず現実になるだろう。
こと、彼の守護聖に関することで、それは疑う余地はない。
それが、絆。
「……わたくしも信じる事にいたしましょう。    炎の守護聖の帰還を」




ランプの炎が揺らめき、金と翠の影を緋く縁取る。
「私が女王でいられるのは、貴方が支えてくれるから。私には聞こえるの、あの人の声が」
女王の呟きは大気に溶け、世界を護る力になる。
「私は知っているの。私の心が貴方の心になる。貴方の命が私の命になる」
女王の想いが星々に満ちる。
「早く…帰って来てね? 信じているから…貴方の強さを…」
心に映る面影に、想いを込めて囁かれる言葉。
穏やかに差し伸べられる、その白く優しい腕(かいな)の向こうに……




「貴方を信じているわ。    愛しているわ、…………オスカー……    




私は信じている 知っている
距離を知らない言葉がある
翼ある使者    
それは 愛だけが知る 見えない絆


・★ FIN ★・



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