A列車で行こう

1999.8.8 ・◆・ 梯 ゆう 




   初夏の風が窓のカーテンをゆらす気持ちの好い午後、オスカーは久しぶりに執務室のデスクを片付ける気になり、引き出しの中身を床にぶちまけて整理をし始めた。
 部屋の掃除は係りの者が毎日しているのだが、デスクの中身までは任せられない。いつのまにか、引き出しは未整理の書類で一杯になっていたからだ。
 さわやかな若葉の香りのする風に促され、調子よくデスクを片付けた彼は、こんどは普段は使わない書類ダンスに取りかかった。
 1段目、2段目、忘れていた書類や無くしたと思っていた住所録が飛び出してくる。オスカーは微笑みや苦笑いを浮かべながら、それらを分けていった。3段目に取り掛かったとき、黄ばんだ書類の束からのぞいている写真にオスカーは気がついた。
 それはセピア色に褪せたピンぼけのポラロイド写真。写っているのはソフトクリームに赤いリボンの可愛い5、6才の少女だ。
 オスカーにはこの写真を見るたびに思い起こされることがひとつあった。どうでもいい事かもしれないが、いまだにこの写真を見ると、思い起こさずにはいられない謎がある。

 右手に写真を持ったまま、オスカーは執務室のデスクに腰を下ろした。

 祝日にふさわしい人物なら公園には幾らでもいた。そのなかで彼女はなぜ俺を選んだのだろう。そして俺はなぜ受け入れたのだろう。
 もしかしたら、俺は彼女と一緒にA列車に乗りたかったのだろうか。
 謎が解けるまで、俺はこの写真を捨てられない。

 あのときと同じ若葉の風と光と影、そして写真の導きで、オスカーセピア色の想い出に沈んでいった。



 さよならも言わずに、彼女は去っていった。
 ……いつものことだが……堪えるな。
 オスカーは別れを告げられたベンチで、寂しさを噛み締めて座りつづけた。組んだ両手を地面に向けて、俯き加減でどのくらい座っていただろうか。
 ふと気がつくと、頭上から少女の甲高い声が彼を呼んでいた。
「おじちゃん?」
 金髪を二つに分けて頭の高い位置でリボンをくくった少女が、身体を起こしたオスカーの目に入った。少女は溶けかけたソフトクリームを舐めながら彼をじっと眺めている。
 オスカーは当初、その言葉が自分にかけられたものだとは思わなかった。
 当然だろう。
 花の二十代、自他共にナンパが趣味と認める魅力あふれるプレイボーイが「おじちゃん」であろうはずがない。
 だがそこはオスカーだった。たとえ対象年齢外であろうと女性に反応せずにいられない体質がパブロフの犬のように脊髄反射を繰り返していた。
 オスカーは意識せずに魅力的な角度で魅力あふれる微笑を彼女に見せて答えていた。
「なんだい、お嬢ちゃん?」
 しかしさすがに対象外のお子様に彼のテクニックは通用しなかった。少女は彼を無視してソフトクリームを舐めつづける。ひとしきり舐め終わった後に彼女は「いたの?」という感じでオスカーに話しかけた。
「おじちゃん、何してるの?」
 少女は先ほどと何ら変わっていなかった。つまりオスカーの魅力は彼女には通じていないということなのだろう。
「何でそんなこと聞くのかな?」
 オスカーは少しばかり傷ついた心をおし隠し、彼女に切り返した。
 問い返されるとは思っていなかった少女は、しばらくのあいだ小首をかしげて考えてこんだ。
「おじちゃん、女の人が行ってから、ずっとベンチに座ってるんだもん」
 それだけ言うと少女は彼の隣にぴょいと飛び乗ってベンチに座った。戸惑うオスカーに、ニコっと微笑んでソフトクリームを舐めはじめる。少女はオスカーと視線が合うたびに微笑むが、次の瞬間にはソフトクリームに意識をもどして舐めている。ソフトクリームを舐める少女につられて、赤いリボンがぴょこぴょこ動き、その度にバニラの匂いが強く漂ってオスカーの鼻腔を刺激した。バニラの香りはアイスではなく少女が発しているかのように思えた。
 少女はオスカーの顔を眺めながらソフトクリームを舐めつづける。オスカーはまるで酒の肴にされている気になってしまった。
 だが、逃げるわけにもいかなくなっていた。少女の視線に蛇に睨まれたカエルのように動けない。
……見られてたとは、な……
 さきほど、別れを告げに来た彼女が去ってから、ずっとこの少女は自分を見ていたのだ。
 別れた彼女で何人目だろうか。
 誠意を尽くして、愛していても、決して永続きしない。
 オスカーは愛は短く燃えるものだと諦めていたが、それでも別れの時は彼に辛くのしかかる。それをこの少女はずっと眺めていたのだ。
 オスカーは少女が何も知らないだけに、きまりが悪くて立ち去れなかった。


 小さなお嬢ちゃんはソフトクリームがコーンをかじる段階に入ると、オスカーに様々な質問を浴びせはじめた。少女はいろんな話題を与えてくる。オスカーは少女の尋ねるままに答えを返していった。

「なんで別れたかって……? そうだな。燃え尽きたからかな。愛がだよ。愛がわからない? うーん……」
 答えるのに困る少女の質問は徐々にオスカーを夢中にさせていく。愛に破れた苦痛をバニラの香りは薄れさせていった。

 赤いリボンのバニラの少女は他愛のない質問しかしないのだが、そのどれもがオスカーを和ませてくれるものだった。彼女の醸し出す独特の雰囲気は、かってどんな女性もオスカーに与えてくれないものだった。ベンチの上で硬くなっていた心と体が解けていく。
 オスカーはいつのまにか真剣に少女の相手をしていた。彼女の問いに笑い、彼女の答えに悩み、オスカーの世界はしだいに赤いリボンに絡めとられていった。
 だが、側から見れば子守り中の若いパパそのまんまでもあった。


「ひとり、きらいなの?」
「そうだな。嫌いじゃない。だけど誰かが傍にいてくれるほうがいいな」
「私がいてあげる」
「本当? 本当にずっと一緒にいてくれるのかい?」
 冗談半分にオスカーが言うと少女は「うん!」と元気よくうなづいた。ソフトクリームを大きく飲み込んで、小さなお嬢ちゃんはオスカーにニッコリと微笑んで彼の手に小さな掌を重ねてきた。小さな小指がちょこちょこ動き、オスカーの小指を探り当てて指切りの形を作る。離れないようしっかり小指をからめると、少女はオスカーの手首が動くほど大きく小さな小指をあげて振り下ろした。
「ゆび切った!」
 その勢いにソフトクリームの山が傾いてしまったほどだ。慌ててソフトクリームの修正に少女はとりかかる。
 しかめっ面でソフトクリームを片付けている少女を横目に見ながら、オスカーはこみあがる笑いを必死に堪えていた。小さな少女のプロポーズにオスカーは笑い出したくなったのだ。
 そんなことをすれば少女が去ってしまうのは目に見えていたのでしなかったが、それでも笑いは唇からもれてしまう。
 笑いを押し殺すオスカーに気がつかないまま、となりで少女はソフトクリームの仕上げに突入していた。


「おじちゃん、あれに乗ろうよ」
 少女はコーンの最後のかけらを飲み込むと、小さなひとさし指を指して言った。その先には遊園地には付きものの小型の列車の乗り場があった。
 ちょうど駅に列車が戻っていて、赤い屋根と黄色い車体が濃い緑の木陰に止まっている。
まっ黄色の横っ腹には青いペンキでAの字が書いてあるのが見えた。駅舎のまえにはA列車の大きな看板が立っている。
 オスカーがあれかと聞くと、頷いて彼の手をとってベンチを飛び降りた。
「行こう。行こうよ」
 重ねてつづける少女にひきづられて彼は駅舎に近づいていった。

 明るい金髪。
 陽光に踊る赤いリボン。
 濃い緑の木陰に眠る、赤い屋根した真っ黄色のA列車。
 真っ白な日の光が濃い影を落としコントラストだけが強調された世界に幻影のようにふたりの影が張りついている。バニラが乾いていく匂いはこのまま少女の言うままに過ごすのも悪くないと思わせた。
 ふたりが乗ったA列車はどこまで俺たちを連れて行ってくれるのだろう。
 そう思い始めたオスカーを女性の呼び声がさえぎった。
「……アンジェ、アンジェリーク?……」
「あっ、ママ!?」
 少女はオスカーの手を振り切って駆け出した。まっすぐに彼女を呼んだ女性のもとに走りだす。赤いリボンが視界から消える寸前、オスカーはとっさに腕をさしだして彼女を抱きとめようとした。
 だが、捕えられるはずもない。彼の腕は僅かの差で赤いリボンを止められなかった。少女はオスカーの腕をすり抜けて、母親の胸に帰っていった。
 駅舎の前には自らの両腕を苦笑しながら眺めている男だけが残っていた。

 あんな少女に何を期待していたのだろう。
 オスカーは遠ざかっていく、ゆれるリボンを苦笑いで見送った。

 遠ざかる少女にさよならをかけるべきだろうか。
 悩んだ末にオスカーが少女に片手を振って別れを告げるようとしたとき意外な出来事が起こった。
 去ったはずの金髪が引き返してきたのだ。彼女は母親から何かを奪い取ってまっすぐにオスカー目指して戻ってくる。赤いリボンがぴょこぴょこ跳ねて、ほどなく少女はオスカーの手の中にいた。
 少女はハアハアと息を切らして手にする紙切れを彼に突き出した。
 受け取った紙には少女の姿が写っていた。
 そのなかには今日の少女が宿っていた。
「約束したから、これあげる」
 訝しげなオスカーに少女はにこにこしてみせた。
「私がいっしょにいてあげる」
 それだけ言って少女は母親のもとに帰っていった。



 それだけの出来事だ。
 変色した写真がなければ忘れてしまったたぐいのことだ。
 この写真があっても忘れてしまったかもしれない。
 そう、彼女がまた現われなければ……。


 コン、コン。
 執務室の扉を誰かがノックして、オスカーをセピアの想い出から連れ戻した。
 もう約束の刻限になっていたのだ。
 オスカーは慌てて写真を引き出しにしまいに走った。手もとのデスクにしまえばいいのによほど慌てていたのだろう。わざわざ書類ダンスの元の位置に写真を隠すように入れてしまう。
 乱れた髪を片手で直し、オスカーは外に立つ彼女に入室の許可を与えた。

「失礼します」
 扉を抜けた少女はもうバニラの匂いはさせていない。ソフトクリームの代わりに育成の書類、無邪気な微笑みは生真面目な表情に変わっている。約束は指切りでなく、くちびるで結ばれる年齢になっていた。
「オスカー様」
 変わらない金髪と赤いリボンが俺の名を告げる。
「おじちゃん」
 どこからか甲高い少女の声が重なって聞こえてきた。

 俺は彼女をお嬢ちゃんと呼べなくなったとき、A列車に乗り込むのかもしれない。

 楽しい予感にオスカーは謎が解けていくのを感じとって笑いを洩らすのだった。

      
・◆ FIN ◆・



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